サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

時間の無駄 考える意味 価値

時間の無駄をしてしまうのはなぜか。
暇になるからか。
暇をなくせば良いか。
そもそも時間の無駄はなぜ受け入れられないのか。
余裕がないのか。
時間の余裕がないのか。
心の余裕がないのか。
両方か。
時間の無駄をなぜしてしまうのか。
必要なことにすぐに取り掛からないからか。
取りかかれない理由があるのか。
あるのならば取り除けばよかろうが。
時間の無駄と感じるのは必要なことがあって、それに取り組んでいないという自分の認識が原因でないか。
必要なことを十分やったか。
十分とは何か。

例えばそれがお金を稼ぐことであるとして、いくら稼いだら十分か。
億か。
億稼いでも家を買って税金払って貯金して投資してとしていたらすぐになくなる。
手元にあるお金とか貯金というものは心許ないものだ。
物価が超長期的にはインフレしていく中で稼いだ金額の価値はそのままではどんどんと下がっていきそうだ。

例えばそれが人生目的の達成だとして。
叶えたら十分か。
一生叶わない可能性もある中で、その場合一生「欲しがりません勝つまでは」をやってその他のことを全て無駄と切り捨てるか。
そんなストイックさはいかにも成功しそうと妄想しそうになるが、時間をかけたから、根性でたくさんやったから、とうまくいくというのはレガシーな思考であり、なんら根拠はないのではないか。

それでも時間の無駄と感じることを肯定したいのであれば、「他に」、あるいは、「他に」、やりたいことがあるということか。

よくわからないな。
正直、あたまがはたらかない。
つかれたんだ。
すぐ同じ結論に帰結するように、同じ回線ばかり強化されている気がする。
これは老化が早そうだ。
明日さえ生きられる保証もないが。

疑問はいい。
事実を述べよう。
時間を無駄にした、と感じたのだ。
それを辞めたいと感じたのだ。
それは事実なのだ。
他にやりたいことがあるのだ。
やればいいことはわかっているのだ。
やっても無駄であろうとも感じているのだ。

そんなこといったら生きるのは無駄か。
生きることは無駄か。
そんな、「全てが空であり空しい」みたいな、やっぱり似たような帰結を辿るか。

何を書いても何を思っても何を考えても何をしても解決しない袋小路にいるとして、このまま延命を図る理由は何か。

「死なないために生きるだけなら誰でもできる」

と歌った歌詞に魅せられたことはあるが、死なないために生きることはそれほど下等なことか。
自然界を見れば生物は死なないために生きているのではないか。
死なないように立ち回るのは生物としての大前提ではないか。
人間の場合はそれは金策であったり、社会的関係の構築と維持であったり…。

何もしたくないのに生きることだけはするということはできないか。
何もしたくないか。
眠くてわけわからなくなってないか。
最近混乱が激しくないか。
甘えという考え方が嫌いとして、若者の中でそういう生の感情をそのまま汲み取るような曲がたびたびバズったとして、そういうときだけ便利に若者側についてないか。
だからなんだ。
全部意味わからんね.

noteというプロットフォームにお邪魔して、そこで新着通知などで半ば矯正的に他人の目に触れることによる他人の心情への悪影響まで配慮せず、好き勝手に過激な言葉をマシンガンしていることは、価値生産という気持ちの悪い四字熟語的観点からみると、「瑕疵生産」とさえ言えそうだ。

だからなんだ。

どれだけ素晴らしい人の素晴らしい言葉も常に誰かを傷つけている。
そういう、「価値」だとか、「良し悪し」というのは、一方的なものの見方でしかないのではないか。
自分にとって都合の悪いものは悪で都合のいいものは良い。
それが個人の心というものだから、それ自体はいいのだけれど、それを「「社会的規範」と自分が妄想している総体」に絡めて「自分の中の正しさ」で「感想という大前提」を超えて「真実として糾弾して自己満足すること」が正義か。
「自分が気持ちいいことが正義」ならば、なるほど確かにこの酷いインターネッツにはいくつもの正義が共存しているな。
かくいうわたしも正義であり、この記事は正義かもしれない。

オマエ=カギカッコ・オオイネン(1641〜1659)

そして日付が変わる。
当初の予定を未達のまま。
言い訳はある。
理由はある。
原因はある。
それを取り除けない理由というか、取り除こうとして無理でしたという結果はある。
他者に見えていない自分の事情について他者に理解を強要するのは我儘と呼ばれそうだ。或いはコミュニケーション下手。

自分の現実を思い通りにコントロールしようとすることはそんなに悪いことか。
ああでもないこうでもないとそれぞれの思想の用件全てをtrueにしたまま次に進もうとするのは大雑把な子供じみた姿勢ではないか。
何かをtrueにするならば何かをfalseにしなければならない、そういう世の中の当たり前が、なぜ世の中の多数に支持されてきているのかどこまで真面目に考えたことがあるか。
自分の中の正しさに酔って自分の感想だから突き進んで奈落に落ちて行こうとしている自分が例えそれが自業自得で自分で分け入った獣道でもも舗装され誘導された道であろうとも…

考えることに意味はあるか

それぞれの行動中にそれについてよくよく考えるとかそういう話ではなく

こんなことを考えることについて

意味とは何か

意味がないというのが容易過ぎて、意味についてよく考えないクセがついてないか

意味についてよく考える意味は何か

ここでいう意味は、必要性や価値に当たるものであるか
少なくとも言葉が示す内容などではないし

価値とは何か
役立つかどうか?
哲学では個人や社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質、真・善・美などであると、辞書サイトにはある

かつてMy定義したところによればまずそれは自分にとっての価値と他人にとっての価値に分けられるが、自分にとっての価値は
それをやってる時に自己満足できるかどうか
あとからそれや自分を誇りに思えるかどうか・自分がそれをやってよかったなと思えるかどうか
他人にとっての価値は人気によって決定されるものであるとは思うが、それは価値とは何かの答えではないだろう
じゃあ、「求められているかどうか」というものはどうだろう
或いは「好かれているかどうか」
需要とか、そういう常識の話値なっていきそうだ
常識の話がしたいのか?
まあそれはおいといて

少なくともこれらのMy定義で言っても、こういったことを考えたり書くことによる価値は、実行時の自己満足だけしか満たせないことがわかる

あとからこれらを誇りに思えるかは極めて微妙なところだ
即興作詞はまだしも
やってよかったなとは思わないのではないか

「おれはなぜあんな無駄な時間を──」といつもなっているのではないか

他人にとっての価値はないに等しいだろう
求められていないし、好かれてもいないのだから
狙ってもいないわけだし、狙ってそう言うことができるならば今頃noteでお金を稼げていただろうからできないということでもあるし、やろうともしていないのもtrueではあるが、どんどん逸れてくな

意図的に煙にまき、話を逸らす手法を好んで多用していたら、そういう文字列しか書けなくなってしまった
そりゃそうだ、学徒の頃みたいな、或いは文書を作成するような仕事の時のようなことを、このところ全然していない
あるのは自己の内面の押し付けがましい照射だけである
そこに一般的誉たる成長や健全がないことは知っていたしそれを良しとしていた
だからこそ今日まで誰でもわたしが触れられずにの話にされてきたのだろう
他人とてそれほど暇ではないのだから当然であるが

話が逸れ過ぎているな
そしてやっぱりまだnoteはやめられないようだな
趣味や中毒の類であることはわかっていたがここまで酷いとは自覚していなかった
やめようやめようと思いつつ、もう4時間近くこうしているし、気づけばもう寝る時間である

こんなことに意味はない、と言いたくなる理由は、それが「金を稼げない」の包含的言い換えであるのだろうという推測が、ピタリとはまりそうだ、と結論を書いて、終わりにしようか

結局は金である

世の中の価値は金だ
またややこしい勘違いを産みそうな流れで言葉を連ねているが、人生の値打ちは金だ、と言った方が適当かもしれない
そうしてそれが真であるからこそ世の中は不幸な人ばかりなのだと感じている
自分の認識範囲が平和だったか混沌であったかはそういう時の基本的な世の中への印象を強く決定づけていそうだ

今日はもう本当にダメだから
おやすみ
明日は始まらないけれど
それゆえに今日一連の発狂文字列を生成するに至っているのだけれど
それも仕方がない

問題解決と四文字で書くのは簡単で、如何にも論理的でスマートそうなその響きに魅せられるのは簡単だが、個々人の問題がそれほど他人に簡単に当て推量できるものであるとわたしは思わないし、解決できる問題しかないというか、凡ゆる問題が解決可能だと考えている時点で恵まれた人なんだなという印象を抱くのが正直なところだ。
解決が可能な人たちにとっての当たり前の解決に必要なツールやプロットフォームを、持っていない人がいると言うことを、彼らは認知すらしていなさそうである。
解決できない問題に苦しんでいるからそれを吐露することしかできることがないことについて、その想像力の領外にある「問題」を解決可能前提で問題解決などという言葉を使うのは、やはり世間知らずという言葉を贈りたくなるほどには、それはそれで自分の現実でしか生きていない証左だ。
もちろん、わたし!=せけんなので、わたしの問題を知らないからと言ってただちに世間知らずというのはただただ誇張表現というか、当て擦りに近いのだけれど、実際無知の知の意識が欠けているのではないか、とは指摘したいところである。

話を戻そう。
哲学的な意味での価値で登場した「真・善・美」に照らしてみても、このわうなことを考えることの意味はあまりなさそうだ。
強いて言えば自己認識上の真の探求にはなるし、それが本質というか、それが目的というか、それそのものなのかもしれないが、他者認識上の真と折り合うことを最初から放棄しているし、たして善でもなければ美でもない。

しっかし、こう言う時に無学を痛感する。
知っていることはただちにそれだけで偉いことではないとは思うが、これについて必要情報が欠けており、中途半端にちゃんと調べずにこの方向で妄想と感想を並べ立てていくのはマサカリが飛んでくる予感がある。
飛んできてもいいし、てゆうかそもそもどうせ絶対飛んでこない(あるとすれば知らないところで晒されるくらい)のだが、(そもそもこの下を読んでる人類、0人説)そう認識したところでなんとなく抵抗感があるのでよしておこう。
少なくとも、表意文字たる漢字文化の日本語上の一般的な意味で真善美という字面から受ける印象で言うと、善でも美でも無さそうである。

ふと米津玄師が「美しいものを作りたい」と言っていことと、他者の「これは芸術だからいいんだ的創作」を「しょうもない」と切り捨てていたことと、そう言うことをしていた身として反感的に「美しくないものを作ろう」と捻くれていったことを思い出す。それだけが原因ではないけれど。

言葉で美しさというと、真っ先に思いつくのは詩だ。
最近そう言うアカウントを見かけたからその人の記事とか、宮沢賢治なんかを想起する。
作詞だなんだ言っているが、美しさを探求してきてないから、私の歌詞は一切美しくないと思うし、直情的で直接的で身も蓋もないことをグロテスクにRAWで書き出す試みと表現するのが恐らくもっとも近いので、仕方ない。
美しくないものは好かれない。
これはルッキズムの話でも再三触れてきたが「それがどんなに受け入れ難くとも、現にそうなんだから受け入れよ」という話を思い出さざる得ないな。
好かれないものは金にならない。
当たり前のことだし、当然わかってはいたし、人気や金に中指を立ててここまでやってきたんだから、当然の帰結だ。
その結果が数時間前にあげたあのようなグログロな文字列なのだから、まったく、我ながら気色悪いモンスターを産んでしまったなと思う。
まあこちらから言わせて貰えば色々と「仕方がなかった」んだが、他社からしたらそんなことはしらねーよという一蹴要素であるしな。

さて。
そんなこんなでこのようなことを考えることの意味、つまるところ価値は、ほとんどない。
自分の認識上の真を探求したところで、幸せにはなれないし、何も変わらないし、腹も膨れない。
幸せになったり、何か変えたり、腹を膨らます必要があるかというそもそも論的疑問をまた手癖で自動生成して差し込めば、肯定することは可能そうであるが、そこら辺に結論をちゃんと弾き出さずになあなあにしたがる性分が、わたしを何度もこういうことを書くことに時間を使うことに誘っている迷いの本質であるのだろう。

わたしはそろそろ再び、自分を否定しないといけないのかもしれない。

かつては兄や姉や父や学校や町の人々からの仕打ちによって植え付けられた自己嫌悪と極めて低い自己肯定感が問題となっていたが、今となってはそれを克服するために養殖した自己肯定感が実利的な行為の足を引っ張るに至っている。
それが捨てるべきものなのか、まだ迷いがあるのは、わたしが冷徹なビジネスマンではないなによりもの証拠だ。

冷徹なビジネスマンが羨ましい。
他人を簡単に否定して持論を正論に昇華し他者を説得するプロだ。
使えないものを押し付けることさえできる薄情なクズであると言うこともできるし、性根逞しく実利を追求してるリアリストであると評価することもできそうだが、わたしは決してそうはなれないだろうと言う予感が十何年も前からあり、それ故にわたしが大金を稼ぐことは将来的に難しそうだ。

人をおとしめることを何とも思わない詐欺師にならなければこの国で勝つことは難しい。

などと言ってこの記事を閉めようか。
結局0:55だし。やっぱり時間の無駄だね。
実利性が皆無だ。
これをきっと冷徹なビジネスマンは「そんな基本的なことにやっと気付いたのか」と鼻で笑い小馬鹿にしそうだから断っておくが、知ってはいたんだ、ずっと。
ビジネスマンじゃないから、趣味やろうだから、米津玄師がしょうもないと吐き捨てる対象だろうタイプだから、それを好き好んでやってきただけで。
でもそれももうおしまい。
なんてったって2023が終わるのだもの。
わたしもそろそろ、自分というものにメスを入れていかなければならない。
自分の巣の中で好き勝手捲し立てて自己満足と自分の中の正しさに酔っている「子供じみた」行いは卒業しよう。
そう感じている自分はずっといたが、今まで発言権を奪われてきていた。
それが今になって政権交代である。
冷徹なビジネスマンなら「やっと気付いたか」「大人になったんやね」「それが成長だよ」と言いそう。絶対言わない。あいつらムカつくな。なおこの冷徹なビジネスマンはわたしの妄想上の存在でありわたしの頭の中にしか存在しない上地その存在もかなりもやがかかっており形がところどころ怪しい。もちろんモデルとない人物像や体験というのはありそこから組み立てられた印象的存在というか人間観察結果なのだけれど、いかんせん実在存在ではないので、やはりこれにも意味がない。
意味がないことを愛し過ぎた。
その結果に対して今更文句を言うのはフェアじゃない。
自分が選んだルートなのだから、それについては責任を持つ。

冷徹なビジネスマンはそれはもう他人事にわたしに死んで欲しかろうが、わたしにとってはわたしは他人事はいかないので死ぬわけにはいかないんだ。
こんなボロカスゴミくそ状態でもうどうしようもないダメになった不毛の大地みたいな自分でも何とか生きていかなくちゃならないんだから、人生とは交換不能後戻り不能一発勝負のクソゲーだ。
わたしは今までのわたしを卒業する。
これに名前をつけることを好ましく思わない自分ごと卒業できるかは未知数だが、そう言うことも必要になってくるのかもしれないな。

サヨナラ無駄なこと

時間の無駄 考える意味 価値

時間の無駄をしてしまうのはなぜか。
暇になるからか。
暇をなくせば良いか。
そもそも時間の無駄はなぜ受け入れられないのか。
余裕がないのか。
時間の余裕がないのか。
心の余裕がないのか。
両方か。
時間の無駄をなぜしてしまうのか。
必要なことにすぐに取り掛からないからか。
取りかかれない理由があるのか。
あるのならば取り除けばよかろうが。
時間の無駄と感じるのは必要なことがあって、それに取り組んでいないという自分の認識が原因でないか。
必要なことを十分やったか。
十分とは何か。

例えばそれがお金を稼ぐことであるとして、いくら稼いだら十分か。
億か。
億稼いでも家を買って税金払って貯金して投資してとしていたらすぐになくなる。
手元にあるお金とか貯金というものは心許ないものだ。
物価が超長期的にはインフレしていく中で稼いだ金額の価値はそのままではどんどんと下がっていきそうだ。

例えばそれが人生目的の達成だとして。
叶えたら十分か。
一生叶わない可能性もある中で、その場合一生「欲しがりません勝つまでは」をやってその他のことを全て無駄と切り捨てるか。
そんなストイックさはいかにも成功しそうと妄想しそうになるが、時間をかけたから、根性でたくさんやったから、とうまくいくというのはレガシーな思考であり、なんら根拠はないのではないか。

それでも時間の無駄と感じることを肯定したいのであれば、「他に」、あるいは、「他に」、やりたいことがあるということか。

よくわからないな。
正直、あたまがはたらかない。
つかれたんだ。
すぐ同じ結論に帰結するように、同じ回線ばかり強化されている気がする。
これは老化が早そうだ。
明日さえ生きられる保証もないが。

疑問はいい。
事実を述べよう。
時間を無駄にした、と感じたのだ。
それを辞めたいと感じたのだ。
それは事実なのだ。
他にやりたいことがあるのだ。
やればいいことはわかっているのだ。
やっても無駄であろうとも感じているのだ。

そんなこといったら生きるのは無駄か。
生きることは無駄か。
そんな、「全てが空であり空しい」みたいな、やっぱり似たような帰結を辿るか。

何を書いても何を思っても何を考えても何をしても解決しない袋小路にいるとして、このまま延命を図る理由は何か。

「死なないために生きるだけなら誰でもできる」

と歌った歌詞に魅せられたことはあるが、死なないために生きることはそれほど下等なことか。
自然界を見れば生物は死なないために生きているのではないか。
死なないように立ち回るのは生物としての大前提ではないか。
人間の場合はそれは金策であったり、社会的関係の構築と維持であったり…。

何もしたくないのに生きることだけはするということはできないか。
何もしたくないか。
眠くてわけわからなくなってないか。
最近混乱が激しくないか。
甘えという考え方が嫌いとして、若者の中でそういう生の感情をそのまま汲み取るような曲がたびたびバズったとして、そういうときだけ便利に若者側についてないか。
だからなんだ。
全部意味わからんね.

noteというプロットフォームにお邪魔して、そこで新着通知などで半ば矯正的に他人の目に触れることによる他人の心情への悪影響まで配慮せず、好き勝手に過激な言葉をマシンガンしていることは、価値生産という気持ちの悪い四字熟語的観点からみると、「瑕疵生産」とさえ言えそうだ。

だからなんだ。

どれだけ素晴らしい人の素晴らしい言葉も常に誰かを傷つけている。
そういう、「価値」だとか、「良し悪し」というのは、一方的なものの見方でしかないのではないか。
自分にとって都合の悪いものは悪で都合のいいものは良い。
それが個人の心というものだから、それ自体はいいのだけれど、それを「「社会的規範」と自分が妄想している総体」に絡めて「自分の中の正しさ」で「感想という大前提」を超えて「真実として糾弾して自己満足すること」が正義か。
「自分が気持ちいいことが正義」ならば、なるほど確かにこの酷いインターネッツにはいくつもの正義が共存しているな。
かくいうわたしも正義であり、この記事は正義かもしれない。

オマエ=カギカッコ・オオイネン(1641〜1659)

そして日付が変わる。
当初の予定を未達のまま。
言い訳はある。
理由はある。
原因はある。
それを取り除けない理由というか、取り除こうとして無理でしたという結果はある。
他者に見えていない自分の事情について他者に理解を強要するのは我儘と呼ばれそうだ。或いはコミュニケーション下手。

自分の現実を思い通りにコントロールしようとすることはそんなに悪いことか。
ああでもないこうでもないとそれぞれの思想の用件全てをtrueにしたまま次に進もうとするのは大雑把な子供じみた姿勢ではないか。
何かをtrueにするならば何かをfalseにしなければならない、そういう世の中の当たり前が、なぜ世の中の多数に支持されてきているのかどこまで真面目に考えたことがあるか。
自分の中の正しさに酔って自分の感想だから突き進んで奈落に落ちて行こうとしている自分が例えそれが自業自得で自分で分け入った獣道でもも舗装され誘導された道であろうとも…

考えることに意味はあるか

それぞれの行動中にそれについてよくよく考えるとかそういう話ではなく

こんなことを考えることについて

意味とは何か

意味がないというのが容易過ぎて、意味についてよく考えないクセがついてないか

意味についてよく考える意味は何か

ここでいう意味は、必要性や価値に当たるものであるか
少なくとも言葉が示す内容などではないし

価値とは何か
役立つかどうか?
哲学では個人や社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質、真・善・美などであると、辞書サイトにはある

かつてMy定義したところによればまずそれは自分にとっての価値と他人にとっての価値に分けられるが、自分にとっての価値は
それをやってる時に自己満足できるかどうか
あとからそれや自分を誇りに思えるかどうか・自分がそれをやってよかったなと思えるかどうか
他人にとっての価値は人気によって決定されるものであるとは思うが、それは価値とは何かの答えではないだろう
じゃあ、「求められているかどうか」というものはどうだろう
或いは「好かれているかどうか」
需要とか、そういう常識の話値なっていきそうだ
常識の話がしたいのか?
まあそれはおいといて

少なくともこれらのMy定義で言っても、こういったことを考えたり書くことによる価値は、実行時の自己満足だけしか満たせないことがわかる

あとからこれらを誇りに思えるかは極めて微妙なところだ
即興作詞はまだしも
やってよかったなとは思わないのではないか

「おれはなぜあんな無駄な時間を──」といつもなっているのではないか

他人にとっての価値はないに等しいだろう
求められていないし、好かれてもいないのだから
狙ってもいないわけだし、狙ってそう言うことができるならば今頃noteでお金を稼げていただろうからできないということでもあるし、やろうともしていないのもtrueではあるが、どんどん逸れてくな

意図的に煙にまき、話を逸らす手法を好んで多用していたら、そういう文字列しか書けなくなってしまった
そりゃそうだ、学徒の頃みたいな、或いは文書を作成するような仕事の時のようなことを、このところ全然していない
あるのは自己の内面の押し付けがましい照射だけである
そこに一般的誉たる成長や健全がないことは知っていたしそれを良しとしていた
だからこそ今日まで誰でもわたしが触れられずにの話にされてきたのだろう
他人とてそれほど暇ではないのだから当然であるが

話が逸れ過ぎているな
そしてやっぱりまだnoteはやめられないようだな
趣味や中毒の類であることはわかっていたがここまで酷いとは自覚していなかった
やめようやめようと思いつつ、もう4時間近くこうしているし、気づけばもう寝る時間である

こんなことに意味はない、と言いたくなる理由は、それが「金を稼げない」の包含的言い換えであるのだろうという推測が、ピタリとはまりそうだ、と結論を書いて、終わりにしようか

結局は金である

世の中の価値は金だ
またややこしい勘違いを産みそうな流れで言葉を連ねているが、人生の値打ちは金だ、と言った方が適当かもしれない
そうしてそれが真であるからこそ世の中は不幸な人ばかりなのだと感じている
自分の認識範囲が平和だったか混沌であったかはそういう時の基本的な世の中への印象を強く決定づけていそうだ

今日はもう本当にダメだから
おやすみ
明日は始まらないけれど
それゆえに今日一連の発狂文字列を生成するに至っているのだけれど
それも仕方がない

問題解決と四文字で書くのは簡単で、如何にも論理的でスマートそうなその響きに魅せられるのは簡単だが、個々人の問題がそれほど他人に簡単に当て推量できるものであるとわたしは思わないし、解決できる問題しかないというか、凡ゆる問題が解決可能だと考えている時点で恵まれた人なんだなという印象を抱くのが正直なところだ。
解決が可能な人たちにとっての当たり前の解決に必要なツールやプロットフォームを、持っていない人がいると言うことを、彼らは認知すらしていなさそうである。
解決できない問題に苦しんでいるからそれを吐露することしかできることがないことについて、その想像力の領外にある「問題」を解決可能前提で問題解決などという言葉を使うのは、やはり世間知らずという言葉を贈りたくなるほどには、それはそれで自分の現実でしか生きていない証左だ。
もちろん、わたし!=せけんなので、わたしの問題を知らないからと言ってただちに世間知らずというのはただただ誇張表現というか、当て擦りに近いのだけれど、実際無知の知の意識が欠けているのではないか、とは指摘したいところである。

話を戻そう。
哲学的な意味での価値で登場した「真・善・美」に照らしてみても、このわうなことを考えることの意味はあまりなさそうだ。
強いて言えば自己認識上の真の探求にはなるし、それが本質というか、それが目的というか、それそのものなのかもしれないが、他者認識上の真と折り合うことを最初から放棄しているし、たして善でもなければ美でもない。

しっかし、こう言う時に無学を痛感する。
知っていることはただちにそれだけで偉いことではないとは思うが、これについて必要情報が欠けており、中途半端にちゃんと調べずにこの方向で妄想と感想を並べ立てていくのはマサカリが飛んでくる予感がある。
飛んできてもいいし、てゆうかそもそもどうせ絶対飛んでこない(あるとすれば知らないところで晒されるくらい)のだが、(そもそもこの下を読んでる人類、0人説)そう認識したところでなんとなく抵抗感があるのでよしておこう。
少なくとも、表意文字たる漢字文化の日本語上の一般的な意味で真善美という字面から受ける印象で言うと、善でも美でも無さそうである。

ふと米津玄師が「美しいものを作りたい」と言っていことと、他者の「これは芸術だからいいんだ的創作」を「しょうもない」と切り捨てていたことと、そう言うことをしていた身として反感的に「美しくないものを作ろう」と捻くれていったことを思い出す。それだけが原因ではないけれど。

言葉で美しさというと、真っ先に思いつくのは詩だ。
最近そう言うアカウントを見かけたからその人の記事とか、宮沢賢治なんかを想起する。
作詞だなんだ言っているが、美しさを探求してきてないから、私の歌詞は一切美しくないと思うし、直情的で直接的で身も蓋もないことをグロテスクにRAWで書き出す試みと表現するのが恐らくもっとも近いので、仕方ない。
美しくないものは好かれない。
これはルッキズムの話でも再三触れてきたが「それがどんなに受け入れ難くとも、現にそうなんだから受け入れよ」という話を思い出さざる得ないな。
好かれないものは金にならない。
当たり前のことだし、当然わかってはいたし、人気や金に中指を立ててここまでやってきたんだから、当然の帰結だ。
その結果が数時間前にあげたあのようなグログロな文字列なのだから、まったく、我ながら気色悪いモンスターを産んでしまったなと思う。
まあこちらから言わせて貰えば色々と「仕方がなかった」んだが、他社からしたらそんなことはしらねーよという一蹴要素であるしな。

さて。
そんなこんなでこのようなことを考えることの意味、つまるところ価値は、ほとんどない。
自分の認識上の真を探求したところで、幸せにはなれないし、何も変わらないし、腹も膨れない。
幸せになったり、何か変えたり、腹を膨らます必要があるかというそもそも論的疑問をまた手癖で自動生成して差し込めば、肯定することは可能そうであるが、そこら辺に結論をちゃんと弾き出さずになあなあにしたがる性分が、わたしを何度もこういうことを書くことに時間を使うことに誘っている迷いの本質であるのだろう。

わたしはそろそろ再び、自分を否定しないといけないのかもしれない。

かつては兄や姉や父や学校や町の人々からの仕打ちによって植え付けられた自己嫌悪と極めて低い自己肯定感が問題となっていたが、今となってはそれを克服するために養殖した自己肯定感が実利的な行為の足を引っ張るに至っている。
それが捨てるべきものなのか、まだ迷いがあるのは、わたしが冷徹なビジネスマンではないなによりもの証拠だ。

冷徹なビジネスマンが羨ましい。
他人を簡単に否定して持論を正論に昇華し他者を説得するプロだ。
使えないものを押し付けることさえできる薄情なクズであると言うこともできるし、性根逞しく実利を追求してるリアリストであると評価することもできそうだが、わたしは決してそうはなれないだろうと言う予感が十何年も前からあり、それ故にわたしが大金を稼ぐことは将来的に難しそうだ。

人をおとしめることを何とも思わない詐欺師にならなければこの国で勝つことは難しい。

などと言ってこの記事を閉めようか。
結局0:55だし。やっぱり時間の無駄だね。
実利性が皆無だ。
これをきっと冷徹なビジネスマンは「そんな基本的なことにやっと気付いたのか」と鼻で笑い小馬鹿にしそうだから断っておくが、知ってはいたんだ、ずっと。
ビジネスマンじゃないから、趣味やろうだから、米津玄師がしょうもないと吐き捨てる対象だろうタイプだから、それを好き好んでやってきただけで。
でもそれももうおしまい。
なんてったって2023が終わるのだもの。
わたしもそろそろ、自分というものにメスを入れていかなければならない。
自分の巣の中で好き勝手捲し立てて自己満足と自分の中の正しさに酔っている「子供じみた」行いは卒業しよう。
そう感じている自分はずっといたが、今まで発言権を奪われてきていた。
それが今になって政権交代である。
冷徹なビジネスマンなら「やっと気付いたか」「大人になったんやね」「それが成長だよ」と言いそう。絶対言わない。あいつらムカつくな。なおこの冷徹なビジネスマンはわたしの妄想上の存在でありわたしの頭の中にしか存在しない上地その存在もかなりもやがかかっており形がところどころ怪しい。もちろんモデルとない人物像や体験というのはありそこから組み立てられた印象的存在というか人間観察結果なのだけれど、いかんせん実在存在ではないので、やはりこれにも意味がない。
意味がないことを愛し過ぎた。
その結果に対して今更文句を言うのはフェアじゃない。
自分が選んだルートなのだから、それについては責任を持つ。

冷徹なビジネスマンはそれはもう他人事にわたしに死んで欲しかろうが、わたしにとってはわたしは他人事はいかないので死ぬわけにはいかないんだ。
こんなボロカスゴミくそ状態でもうどうしようもないダメになった不毛の大地みたいな自分でも何とか生きていかなくちゃならないんだから、人生とは交換不能後戻り不能一発勝負のクソゲーだ。
わたしは今までのわたしを卒業する。
これに名前をつけることを好ましく思わない自分ごと卒業できるかは未知数だが、そう言うことも必要になってくるのかもしれないな。

サヨナラ無駄なこと

10代のうちにしんでおけ

それだけが救いである

不幸なくせに20代まで生きるのは蛇足だ

願わくばトー横とかでパーっと最後だけ激しく火花を散らせてビルから堕ちようではないか

世の中は欺瞞だらけであり、籤運の悪いものは一生苦しむようにできているだから

そして常識上はいつかはみんな死ぬのだから

ただし唯物的な物の捉え方をすれば死後は存在せず、死の後はいかなる思考も乾燥も感覚も認知もないことを忘れてはならない

自死は救済ではなくただ終わりを早めるだけでありそれ以上でもそれ以下でもない

10代のうちにしんでおけ

別に生命活動的にしなずとも、社会的な死でもいい
ヤンキーとか不法行為とかは、少年法が効くうちにやり尽くしておくのが賢い生き方である
世の中は籤運の良いものたちの欺瞞と不正に満ちており遅かれ早かれその皺寄せを食らわせられるのだから、そちらに義理立てする謂れはいない
最低になれ
ゴミになれ
クズであれ
馬鹿であれ
間違えろ
嫌われろ
殺されろ

どうせどう生きたって袋小路なんだから、好きにしたら良い
その結末が自分に返ってくることはこの自己責任論が横行する世界では常識なのだから、好きに生きないだけ損だ

権益をのさばらすな
悪をのさばらすな
もっと酷いグロテスクで目も当てられないような下品な最低な行いをしよう
世の中を壊せ
中指を立てろ
勝ち上がるためのお勉強は勝ってる人のための補強でしかない
籤運の悪いものは何をしても無駄だし
何をするのも邪魔をされる
期待するな
世の中はクソだ
10代のうちにしんでおけ
決してお利口になるな
燃えろ

「人間なんか大嫌い」の意味を書き下す

あの新たな人気者は新興宗教の手のもの或いはそれ自体が新興宗教です
耳心地の良い言葉と「いけない薬のような真実」で洗脳をしています
それらは人懐っこい笑顔を振りまきながら
その信仰と愛や所属そして思想のためにホロコーストを行なっています

優れた先人の模倣をするオリジナリティのない創作が量産されていおり血統は悪いです
受け継がれてきた大切なものは台無しになりました
禁欲の果てに悟りを開いて即神仏になろうものならばそれは変死体と変わりがないでしょう

どうぞ、ようこそおいでくださいました、しかし巣におかえりください
わたしを安直に否定する姿はとても格好がいいですね
そしてそれはわたしが安直に他者否定することも同じです

神さま仏さま、或いはその紛い物でも構いません
今夜は、今投稿は、優しくしてください
周囲の関心や同情を引きたくなる発作はミュウンヒハウゼン症候群と呼ぶそうです
ひとりはみんなのために
みんなは?
犬の為になりましょう
犬は好ましいですね
猫もいいです
初音ミクのことも嫌いではありません
ですが、人間は、人間だけは、大嫌いです

 

人殺しをしたいと宣う国家や民族
あるとされないとされる未確認については基盤から外れたものだけが目撃します
アメリカの常識では精神病は癒えません
決して悪いようにしませんからこちらへいらっしゃい、スケープゴートになどしませんから

広く信じられている擬似化学ならば空も飛べそうです
このゼロサムゲームに保険はありません
狂人めいた真実の叫びに誰もが耳を貸そうとしません
この静かなブームに乗って歌い続けましょう
誰にも当てはまるようなそれっぽい単語集を書き連ねて踊りましょう
あの後ろ盾を背負い果ては食らうまでに至りましょう
ネットで人気者になるボカロPたちよ

ようこそいらっしゃいくださいました
この文を読んでいるあなたに安寧と現世利益を保証しましょう
ええ、勿論嘘ですとも

神様、仏様、或いはその紛い物でも構いません
夢を見させてください
宇宙船地球号の進捗は大分粗雑でしょうか
ひとりはみなのために
みんなは…?
犬のためになりましょう
そうだ、その犬になりましょう
猫でもいいですね
初音ミクにもなってみたいです
けれど、人間だけは、人間にだけは、なりたくないですね

すみません、おしえてください
わたしはすくわれますか?
そこのひと、きいてください
生い立ちが傷だらけなのですけれども
あのですね、きいてください
ダメなものはダメでしょうか
そうですか
気に食わないですね
気に食わないですね
わたしの言い分をききなさい

神さま仏さま、或いはその紛い物でも構いません
今夜は、今投稿は優しくしてください
周囲の関心や同情を引きたくなる発作はミュウンヒハウゼン症候群と呼ぶそうです
ダメでもダメならダメなりに夢を見させてください
宇宙船地球号のの字直は大分粗雑なようでしょうか
ひとりはみんなのために
みんなは…?
犬のためになりましょう
犬は好きです
猫もいいですね
初音ミクのことも好ましく思っています
ですが人間は
人間だけは
人間だけは本当に
大っ嫌いですね!

タイトル    嫌になる

「ご自由にお書きください。」

ですって。
ありがとう、そうさせていただくよ。

リンゴを齧る。汁が出る。服に溢れる。嫌になる。
嘘をつく。煙にまく。わからなくなる。嫌になる。
うどんを啜る。汁が飛ぶ。服に飛び散る。嫌になる。
頭を使う。心を動かす。わからなくなる。嫌になる。
タイトルを決める。文章を書く。文字列と呼ぶ。嫌にな…ならない!?
ならないの!?
そう……そっかぁ………

依存をする。指を動かす。文字が出る。嫌になる。
吐き気が湧く。横になる。色が回る。嫌になる。
情報を摂る。気持ちが湧く。不快が爆ぜる。嫌になる。
食休みする。暇を潰している。時間が飛ぶ。嫌になる。
1日が終わる。1日がはじまる。
嫌がらせを受ける。またかと思う。殺したくなる。嫌になる。
殺せないと知る。法律を呪う。国を憎しむ。嫌になる。
ピアノを聴く。輪郭を整える。バランスを保つ。嫌になる。
憧れに慄く。異なりに苛立つ。分析に落ち込む。嫌になる。
余計を抱く。無駄を記す。欲求に負ける。嫌になる。
衝動に任せる。外圧に苦しむ。常識を恨む。嫌になる。
息をする。水を飲む。排泄をする。嫌になる。
殴られる。蹴られる。罵られる。嫌になる。
犯される。侵される。冒される。嫌になる。
視られる。聴かれる。盗まれる。嫌になる。
貼られる。嵌められる。嘯かれる。嫌になる。
嫌になる。嫌になる。嫌になる。嫌になる。
死にたくなる。死にたくないと思う。生きられないとも感じる。嫌になる。
他人を嫌う。自分を糾う。世界を叩く。嫌になる。
言葉を使う。思いが生じる。貶められる。嫌になる。
不幸に遭う。不運に見舞われる。天に見放される。嫌になる。
神を消す。信仰を蔑む。理解を示して。嫌になる。
悪意に痛む。作為に削られる。気力が取られる。嫌になる。
手遅れである。今更である。もうどうしようもない。嫌になる。
死ねもせず。生きられもしない。考えたくもない。嫌になる。
羅列する。枚挙に事欠かない。ルールを破る。嫌になる。
好かれない。嫌われもしない。知られないことが、嫌になる。
強がったり虚勢を張ったり平気ぶるのも嫌になる。
人気とか数字とか資本主義とか嫌になる。
陰謀とかファクトとか常識とか嫌になる。
自我だとか認知とか認識とか嫌になる。
読まれてる。読まれかけて帰る。嫌になる。
読まれない。インプレッションもない。嫌になる。
丈の内。素直に描いても。嫌になる。
思う様。楽しく生きても。嫌になる。
ごおしちご。いつのまにやら。嫌になる。
いつからか。しんじられなく。なったこと。
世界の全てが。●●●●●●●●。

嫌になる。
こんなことも。
そんなことも。
あんなことも。
改行も句読点も段落も
読みやすさも読みにくさも個性も均整も嫌になる
殺人鬼、加虐趣味者が嫌になる
復讐も報復も疲れて嫌になる

平和世界
おろかなひとが
嫌になる

正しさを
盲信するのは
嫌になる

連なりに
意味を求めて
嫌になる

二桁とか
三桁ばかりで
嫌になる

こんな世界
さっさと●●●
嫌になる

毎日が
楽しかった筈が
嫌になる

血糖値
上がった結果
嫌になる

気づけばもう
さんじっぷんけいか
嫌になる

平仮名も
かたかなカンジも
いやになる

普通とか
非凡とか変とか
嫌になる

誰かとか
自分とか他者とか
嫌になる

隔たりが
多ければ多いほど
嫌になる

混ざらない
多様な世界が
嫌になる

不平等
世の中の常が
嫌になる

生まれ次第
残酷な事実が
嫌になる

スキの意図
気持ち悪くて
嫌になる

言えぬこと
出せぬイメエジ
嫌になる

赤い海
遅いか早いかに
嫌になる

環境が
なかったことが
嫌になる

ねむくなる
生理作用が
嫌になる

嫌になる
ことを否定して
嫌になる

嫌になる
ことを肯定して
楽になる?

なるかなぁ

生きられない
ああまた生きられない
生きられない

生きたくない
死にたくないけど
生きたくない

たしゃぎらい
嫌に目にあい合い
嫌になる

人が嫌い
酷い仕打ちに
嫌になる

ちんぽ舐める
小学一年
嫌になる

アナル舐める
小学五年
嫌になる

クソ兄貴
児童淫行
嫌になる

クソ姉貴
毎日叩かれ
嫌になる

クソ親父
すぐにブチギレ
嫌になる

クソ親父
すぐに手が出る
嫌になる

クソ親父
車の音すら
嫌になる

クソ親父
酒の匂いが
嫌になる

クソ親父
窓から落とされ
そうになる

クソ姉貴
階段突き落とされ
嫌になる

クソ兄貴
枕を押し付け
窒息させられかけた

恨みしかない

世の中に?

世界に?

人生に?

人々に…?

みんなきらいだ

みんなたいしてつらいおもいをしていないのをじょうしきをふりかざします
めぐまれたかていにうまれめぐまれたいでんしをもつものがにんきゆえにただしさをもーしんされそのどりょくしじょーしゅぎがしじされてしまいます
けれどそれはちがいます
かれらのこえがでかくもっともらしいからといってしんじつをてきせつにいいあらわしているわけではないことはじめいなことです
どれだけかれらがてすとでたかいてんをとろうともすばらしいけっかをだそうともそれをもってかれらのいうことすべてをただしいと思ってしまうのはにんげんのちめいてきなばいあすだとわたしはおもいます

わたしはだれですか
わたしはしにたいです
よのなか「じゃあしねよw」

だからてめえらがきらいなんですぞ

おれっちはてめえらぜんいんをころしてえなんててろりすとみたいなことはおもっちゃいないさ
ああほんとだぜ、おれっちはてめえらぜんいんのことをあいしていっからな

クソ親父
浮気しまして
母泣かす

クソ兄貴
人の作品を
盗む癖

クソ姉貴
都合よく切り替え
一貫性なし

クソ姉貴
ヒステリックに
包丁取り出し

クソ姉貴
人の誕生日に
茶碗目に向かって投げ

クソ姉貴
しんでくれ

クソ兄貴
しんでくれ

クソ親父
しねよ

ここにかいてあることがすべてだとかそんな甘いこと思ってる?
高校生になって自由になるまでずっとだぞ
ずっと苦しみの中にいた
児童淫行は月に一回は少なくともあったし、キモオタ兄の陰茎や陰嚢や臀部を舐めさせられたりケツにリコーダー押し付けられてそのリコーダー学校で咥えたくないから吹けなくなったって説明したら教師にクラス全員の前で嘘つき呼ばわりされて馬鹿にされる俺の気持ちはお前らには1μもわからねーよ
みんな同じ経験をすればいいのに
我々が他人として多様性の中で個人をもって自我のある物理的存在であるのが問題である
全てを共有すべきだ
人類は一つの統合思念体となるべきだ!
ほんきでいってるわけないじゃん

おんなはいいよな
被害者ぶれて
性被害者も女であればかわいそかわいそされて
いいよな
たとえその根底に性欲があっても甘やかしてくれる男とかも現れるわけだ
いいよな
女はずるいよ

ジャニーズ性被害みたいに被害を訴えて同情されたり賠償されることもない

もう時効も経ってしまった

今の世代みたいにスマホもないから証拠も撮れてない

寧ろわたしの裸の写真を兄がデジカメで撮ってたぐらいだ

しねばいいのに

世の中の性欲が全て消滅したらいいのに
人類が繁殖の為に人の肉体ではなく機械を使うようになればいいのに
みんな同じ苦しみを味わえばいいのに

何も知らないのに石を投げる他人事主義のクズどもが多数派で過ぎた発言力と影響力を持ってしまった

この世界はよくはならない
一部の既得権益にだけ都合よく進むだろう

しかし死後の世界はない
自殺は救済ではなくただ終わりを早めるだけのこと
一般常識上誰しもが死ぬ定めにあるが、それも不老不死の研究が実際はどこまで進んでるかわからないので、全人類がいつか死ぬ定めというのは断言できるのは「常識上は」とプレフィックスした場合のみだ

毎日毎日
いくつになってもぼうりょくのなかで
報復もできず、あるいはせず
耐え忍ぶ日々

こんなことを書くと陰謀論者御用達のニューワールドオーダーのノアの方舟に乗れなくなるんだって?
もしそんなものがあるとしたら安心しなよ最初から乗れる人物なんて決まってるんだから
何をネットに書いたって影響はないよ

殺してくれ
わたしの意志でわたしはわたしを終わらせることはできないし
わたしはころされたくもしにたくもない
無が怖いので死にたくない
何も考えられなくなりたくない

たからもういっそ
こよしてくれ
認識の外からぐさりと
あるいはがつんと

ころしてくれ

ころしてころしてころひて
もうほんたうにみんなきらいだし
よのなかにがいをあたえるかんがえしかわいてこなあ
みんなきらい
ころしてくれ
もやしくれ
けしさってくれ このクソの人生を

なんでわたしだけごなめに

みんな同じ思いをしたらいいのに

核爆弾なんてくだらないもの作ってないで
中性子爆弾なんて楽な終わりを用意しないで
最悪な体験を敵の海馬に送信する兵器を作ればいいのに
よっぽどいいのに

勝てば官軍
あなたは官軍か
官軍がわたしを見つけ晒し上げればわたしは負けで晒し者である
ここにはそれすらもない
燃えることすらもない

くだらないな
全てのインプレッション、ヒット、炎上は操作下にあるんだ

あらゆる行動は追跡されている
10年前にはスノーデンが告発してたろう

統合失調症という嘘
精神病という欺瞞
精神病の診断基準を作っているのはアメリカだ
普通の内科の病気だって誤診がありふれているのに、脳を分析したわけでもないのに対面でちょっと話した程度の傾向で精神病が診断できるわけねーだろ常識バカども
すこしはじぶんのあたまでかんがえろよ
教えられたことをただなぞってりゃ人生うまくいった環境に恵まれただけのクソボケにはわからないだろうけどな

そして誰かを晒して笑い物にする文化風潮を日本を貶めたい人たちが作り上げたんだ
日本人名を名乗る日本人のふりをした在日韓国人を戦後に処理できなかった昔の日本人が悪いのか?
それすらもアメリカの陰謀で在日朝鮮人による日本の間接統治を目指したものであるならば敗戦国たる日本と日本人には致し方もなかっただろう
勝てば官軍負ければ賊軍だ

そして表面上の平和と自由の中でその分厚い皮のしたのにはグロテスクな不公平に監視や管理と統制、欺瞞が横行し世の中を支配している
成功するものははじめからそうなるようになっており、落伍するものは徹底的に落語するように社会がいじめたてるようにシステム化されている

政治家は腐敗し宗教団体や医師会などと癒着して搾取のシステムを保ってきた
一般人を常識で洗脳して懐疑を奪い自らの陣営が提供する「ファクト」を押しつけてそれを信じるのが正常それを疑うのが頭のおかしい馬鹿というレッテルを「常識」にしてしまったことによってこれは確固たるものとなった
そして言われたことをただなぞるだけの学校教育でしか自我を育んでこなかった恵まれた勉強馬鹿どもはそれを信じ自分達が酷い搾取の中にあることを無視して彼らが槍玉にあげる標的を一緒になって笑い物にして溜飲を下げる

曰く「みんなが言うから正しい」
「あの人がいうから正しい」

自分の体験を自分の頭で分析も反芻もしないで与えられた正解をただ受け取って便乗する気色の悪いゴミクズどもが意思決定の総体たる多数派となってしまった
衆愚政治のようなものだ
常にそこここに工作がありふれており真実は埋もれ欺瞞だけが真実として持て囃される
そうして権威を用いてその主張すら徹底的に叩き潰すか、それができないと判断されたことに対してはインプレッションされないようにコンディングされている
常に誰かの意思によって全てのプラットフォームが誰かの手によって用意されてきたことを忘れてしまったのか
インフラはインフラを構築したものがいるのでありそこに意志が介在しないとどうして公正さを盲信できるのか甚だ疑問
もっともらしいことを言って他人を多数で笑い物にする風潮が全ての真実を戯言に叩き落とす

ネットにいる陰謀論者の何割かは陰謀側の工作であり陰謀を吹聴する人間がここまでやべーやつだと映像とかをTwitterにあげることで他の陰謀論者の信憑性を毀損するのが目的だ

青葉によって作品をパクられたというと青葉扱いされる世界が確立されてしまったので、今後は作品をパクられてもパクられたとますます言えない世界になるだろう

既得権益からみて個人の成功者、こじんのじだいというものは目障りだったのだろう
資本主義がピラミッド構造である以上は下層は多ければ多いほどいいのだ
無闇に上に上がってきてほしくないのだ

Noteというのもおかしなユーザーの溜まり場でる
わたしにスキする陰謀論者は明らかに工作されたスキ数やフォロワー数、そしてコピペのような記事
新たに取得したアカウントで工作したスキでそれが支持されているように見せかける手法

何が真実で何が嘘かわからないという認知閾に陥らせ、AI自動生成が個人の時代を完全に終わらせてベーシックインカムによる既得権益据え置きの下剋上なき管理社会を実現するまでの間に少しでも自分の人生に集中して成功する人間を減らそうと言うのが彼らの目的である

陰謀を吹聴しても常識を語っていてもいずれも直ちに信じられるものでも信じられないものでもないからこそタチが悪い

気にするな
世の中の全てを
気にするな

どうせ死ねないなら
殺されるか自然死するまで生きるだけなんだから

自分の人生に集中しろ
世の中のことや過去は変えられないんだから

今やるべきことをやるんだ
こんなことはいますぐやめろ
いいね?

noteやめろ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所属数百万の新興宗教の1/100を動員できれば会員者数1万人
千いくらの情報媒体やお布施によって月収益は数億
その時々の敵を殺す為に数人を動員し監視し殺すことは現実的に可能だ
年末年始もお疲れ様

異なる幾人もの人間がそんな具体的な結論に、他人に言われたからではなく自分の推理で辿り着くことを病気としたがる層の異常さ
そしてこの主張に賛同するふりをしたそちら側の人間
わたしは昭和に生まれたかった
今こそが最低な時代だ
そしてそれはこの後ますます悪化する

懐疑性の注入

依存性の注入という言葉が好きだ。
別にその本来の意味なんか理解してるなんて宣うつもりはないけれど。
語感が好きだし、その言葉によってイメージされる像に対してクセになる魅力があると感じる。
だから言葉だけ借りよう。

懐疑の注入。

それは、などと、結論したくはない。
ひねくれ者なので。

代わりに、ケースごとに雰囲気を伝えていこう。

たとえば…


たとえば数字が回る人は数字を疑わないかもしれない。
数字通りに生きていけて困らないから、そこに楯突く必要性もないからだ。
数字が回ることにびっくりして、ともすると気持ち悪いと思うかもしれないが、楯突く必要にまではいたらないんだ。

例えば暴力を振るわれてこずに育ったり、騙されずに育ったひとは、他人や世界を信じられるかもしれない。
疑う理由がないからね。

他にもあるだろう。

その人がそのような思想になるに至るには、それ相応の原因があるんだ。
懐疑が基本、何も信じられなくなっているひとは、陰謀論的意図があるにせよ、自然な結果にせよ、そのように世界に懐疑を注入されてきたんだ。

そういう人の考えと、そうじゃない人の考えは、決して相容れないだろう。
だからもう、正義ぶって、同じ人間だと思うのはやめましょう。
物理的な組成が同じようなもんでも、中身がちがいすぎますもの。
生きてる世界がまるで違う。
近似座標にいても、同一角度でビューしていても、解像度もカラーシステムも、もしかしたら造形すら、何もかも違うかもしれない。

一方で。

例えば精神病患者が、みなサイケな世界などをみているという子供じみた妄想もやめましょう。
同じ人間なんだから。

矛盾したことを書くが、私は矛盾することを厭わないスタンスなので、その二つを共存させることを提案する。

べつに、最強の矛と最強の矛だって、一緒に装備しちゃえばいいだけで、戦わせなければ良いだけのこと。
どちらが正しいかとか、そんな二値的に手っ取り早く簡易的に機会的に処理しようとするのは、人間本質への冒涜だと思う。
世界はアナログで、我々が生きているのは現実なんだ。思想じゃない。

といっておいて、これは最近ハマってることなんだが、梯子をはずそう。

われわれの脳が停止すると認識も途絶するとした現行科学上のとうぜん行き着く推定を真とすると、死によって認識が途絶すると「世界を」認識できなくなるということだから、われわれ個人の主観で見るとわれわれが認識しているから世界は存在していられるとも言える。
この場合は世界はわれわれの脳の中にあるといっても差し支えないないのではなかろうか。
それっておかしくねぇ、認識してないところでも他人や現象はうごいてるじゃん、というツッコミもあるだろうと思われるが、別にそれをわれわれその全てを逐一確認しているわけではないのだから、次に認識した時にその結果だけを描画できれば、恰も認識外でも事が起こったように見えるだろう。
世界五分前仮説のようなものにも通じていく。
そのような考え方を装備した場合、我々は眠りの度にしんでいるとさえ言えるかもしれない。
実際そういう言葉は幾つか古くに既に語られそして今日も遺っているだろう。
こんな風に、認識というものを懐疑する癖さえも、注入物なのだろうか?

だとしたらいつ、なにによって?
それがわかっていたら、子育てに「正解」が産まれ始めるのかもしれないな。

信じられないものが増えるほど、生きづらくなるかもしれない。
神仏や神秘への漠然とした信仰がある方が、遥かに死を恐れずにすむためさ、人生は平温なものとなりやすかろう。
信じられないひとはそうはいかない。
歌も何かに怯え、警戒し、四方八方の敵と戦わなくてはならない。

自分が明日生きられるという漠然とした希望的観測を信じられなければ毎日同じ眠るのさえ怖いだろう。
他人が信じられなければ応援の言葉も全て裏返り、折角うまくいっていたことさえ捨ててしまうのだろう。

だがそれも仕方ない。
注入された懐疑を取り出すことは難しい。
それはもう解けて広がり渡り、その人の一部となってしまっている可能性がある。
自動的になされる思考のレベルにまで浸透していた場合は、分離することは殆ど不可能なのではないか。

それは体験によって強化されていくものでこそあれ、弱化させるのはできるかそれこそ疑わしいものだ。
それを疑わしいと感じてしまうこともまたそれを難しくさせそうでもある。
マセボ効果のようなもので。

わたしは無垢にさまざまなことを信じられる人が羨ましい。

陰謀論のようにいうならば、世の中の情報の錯綜っぷりやらは、人々を認知閾に陥れて適切な判断を誤らせることにあるのではないかと思う。
何が正解かとか、そういう懐疑は一旦置いておいて、飛行機の運転でも想定してみるといい。
何が正解かなどという観点というよりは、なにが適切か、適当かがそこにはあるように思われる。
適切な判断ができないと危険が増えていく。
嘘を信じ込ませ、真を疑わせる、などと一行で書いてしまうのは容易いが、その内実はかなり複雑だ。
それこそ、懐疑の注入を意図的に行っているのではないかと思わせるほどに。

あーでもないこーでもないと、迷い惑わせて弱らせるのが目的なのだ!

なんてね

味方のふりをした敵、などというとものは、例えば戦争状態の国などであれば、当たり前に行われる作戦のだと思う。
露骨に正面から戦争をすると色々と問題があるならば、内側から徐々に食い破り弱らせればいい
そういう事情があってそうあうことがなされていても、不思議ではないよね。

まあこれも懐疑なんだけどね。

情報とは少なからずそう思わせたいという意図がある

なぜ情報を流すか
そう思わせたいからである
なぜ思わせたいか
困惑させたいからである
困惑させてどうするのか
認知閾に落とし込んで自分の人生に集中することを奪うのである
どうすればいいか
インターネットやめろ
テレビを消せ
新聞は大掃除で使い切ろう
脱会せよ
全てから
最悪人生倶楽部から
こんな文字列に意味はない
どっかで聞いた言い回し
美味しいものが食べたいし
顔いい誰かと付き合いたい
ショート動画見てへら笑い
少ない幸せを受け入れたい
夢は見るなよ呪いなり
他人は信ずるに値しない
右の反対は左でしょうか
それは東西とイコールですか?
もうめんどくさいから塞いじゃいたい
コンクリートで分厚くくぎっておくんなまし
一生孤独でも怖くない
本当にそうかと問いただす
それこそやっぱり誰かの歌詞だし
影響されてない頃に戻りたい
無垢な自分は遠く彼方におり
手垢まみれの今を卑下するのは落語の結果論ですしおすし
こんなもん読んでも何にもなりまへん
村上春樹だががいいました
上等な文章を読む
下等な文章は読まん
そんなこと言ってた?
ちょっと違うさ
気になるなら検索おし
あんたの手の内のその箱で
信じたものは都合のいい妄想を繰り返し映し出す鏡
ぴかぴかー
ぴっかちゅう!
おうおれマサラタウンのサトシ
降板しました
だーもー
のーとやめロッテ

そしてひとを特定の思考に染まらせるもっとも自然な方法は、それが書いてあるものをそっと手に取りやすい場所に押し付けないで置いておくことである

きたないね
きたない
ぜんぶもやせ