サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

懐疑性の注入

依存性の注入という言葉が好きだ。
別にその本来の意味なんか理解してるなんて宣うつもりはないけれど。
語感が好きだし、その言葉によってイメージされる像に対してクセになる魅力があると感じる。
だから言葉だけ借りよう。

懐疑の注入。

それは、などと、結論したくはない。
ひねくれ者なので。

代わりに、ケースごとに雰囲気を伝えていこう。

たとえば…


たとえば数字が回る人は数字を疑わないかもしれない。
数字通りに生きていけて困らないから、そこに楯突く必要性もないからだ。
数字が回ることにびっくりして、ともすると気持ち悪いと思うかもしれないが、楯突く必要にまではいたらないんだ。

例えば暴力を振るわれてこずに育ったり、騙されずに育ったひとは、他人や世界を信じられるかもしれない。
疑う理由がないからね。

他にもあるだろう。

その人がそのような思想になるに至るには、それ相応の原因があるんだ。
懐疑が基本、何も信じられなくなっているひとは、陰謀論的意図があるにせよ、自然な結果にせよ、そのように世界に懐疑を注入されてきたんだ。

そういう人の考えと、そうじゃない人の考えは、決して相容れないだろう。
だからもう、正義ぶって、同じ人間だと思うのはやめましょう。
物理的な組成が同じようなもんでも、中身がちがいすぎますもの。
生きてる世界がまるで違う。
近似座標にいても、同一角度でビューしていても、解像度もカラーシステムも、もしかしたら造形すら、何もかも違うかもしれない。

一方で。

例えば精神病患者が、みなサイケな世界などをみているという子供じみた妄想もやめましょう。
同じ人間なんだから。

矛盾したことを書くが、私は矛盾することを厭わないスタンスなので、その二つを共存させることを提案する。

べつに、最強の矛と最強の矛だって、一緒に装備しちゃえばいいだけで、戦わせなければ良いだけのこと。
どちらが正しいかとか、そんな二値的に手っ取り早く簡易的に機会的に処理しようとするのは、人間本質への冒涜だと思う。
世界はアナログで、我々が生きているのは現実なんだ。思想じゃない。

といっておいて、これは最近ハマってることなんだが、梯子をはずそう。

われわれの脳が停止すると認識も途絶するとした現行科学上のとうぜん行き着く推定を真とすると、死によって認識が途絶すると「世界を」認識できなくなるということだから、われわれ個人の主観で見るとわれわれが認識しているから世界は存在していられるとも言える。
この場合は世界はわれわれの脳の中にあるといっても差し支えないないのではなかろうか。
それっておかしくねぇ、認識してないところでも他人や現象はうごいてるじゃん、というツッコミもあるだろうと思われるが、別にそれをわれわれその全てを逐一確認しているわけではないのだから、次に認識した時にその結果だけを描画できれば、恰も認識外でも事が起こったように見えるだろう。
世界五分前仮説のようなものにも通じていく。
そのような考え方を装備した場合、我々は眠りの度にしんでいるとさえ言えるかもしれない。
実際そういう言葉は幾つか古くに既に語られそして今日も遺っているだろう。
こんな風に、認識というものを懐疑する癖さえも、注入物なのだろうか?

だとしたらいつ、なにによって?
それがわかっていたら、子育てに「正解」が産まれ始めるのかもしれないな。

信じられないものが増えるほど、生きづらくなるかもしれない。
神仏や神秘への漠然とした信仰がある方が、遥かに死を恐れずにすむためさ、人生は平温なものとなりやすかろう。
信じられないひとはそうはいかない。
歌も何かに怯え、警戒し、四方八方の敵と戦わなくてはならない。

自分が明日生きられるという漠然とした希望的観測を信じられなければ毎日同じ眠るのさえ怖いだろう。
他人が信じられなければ応援の言葉も全て裏返り、折角うまくいっていたことさえ捨ててしまうのだろう。

だがそれも仕方ない。
注入された懐疑を取り出すことは難しい。
それはもう解けて広がり渡り、その人の一部となってしまっている可能性がある。
自動的になされる思考のレベルにまで浸透していた場合は、分離することは殆ど不可能なのではないか。

それは体験によって強化されていくものでこそあれ、弱化させるのはできるかそれこそ疑わしいものだ。
それを疑わしいと感じてしまうこともまたそれを難しくさせそうでもある。
マセボ効果のようなもので。

わたしは無垢にさまざまなことを信じられる人が羨ましい。

陰謀論のようにいうならば、世の中の情報の錯綜っぷりやらは、人々を認知閾に陥れて適切な判断を誤らせることにあるのではないかと思う。
何が正解かとか、そういう懐疑は一旦置いておいて、飛行機の運転でも想定してみるといい。
何が正解かなどという観点というよりは、なにが適切か、適当かがそこにはあるように思われる。
適切な判断ができないと危険が増えていく。
嘘を信じ込ませ、真を疑わせる、などと一行で書いてしまうのは容易いが、その内実はかなり複雑だ。
それこそ、懐疑の注入を意図的に行っているのではないかと思わせるほどに。

あーでもないこーでもないと、迷い惑わせて弱らせるのが目的なのだ!

なんてね

味方のふりをした敵、などというとものは、例えば戦争状態の国などであれば、当たり前に行われる作戦のだと思う。
露骨に正面から戦争をすると色々と問題があるならば、内側から徐々に食い破り弱らせればいい
そういう事情があってそうあうことがなされていても、不思議ではないよね。

まあこれも懐疑なんだけどね。