サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

努力や才能なんてただの二字熟語だ

在りようを言い表す、形容の為に存在するペリなよんおんやさんおんの二字熟語はただの名詞でありその実在を誰が証明しただろう。
それは例えば所詮はチー牛などの言葉と同じ。
「そういうとこあるよね。」
「そういう傾向あるよね。」
なんとなくそう感じる経験則の示し合わせは、その妥当性の根拠をただ「支持されること」に求めてしまう。
支持されるからって実在することが証明されたわけではない。
「頭の出来」「頭の回転」そういう雑な言葉も似たようなものだ。
たしかに、知的障害者や早熟のような差はあるかも知れない。
我々が教えられてきた科学を信じれば人は遺伝子と環境要因によって成り立つので、遺伝子のことをそれらの言葉で形容するのは妥当にも思える。
しかしそれは同時に単なる諦めや、逃避や、言い訳や、レッテル、そういうものとして、便利な道具にさえ成り下がってしまった。
才能や努力なんて言葉に縋るな。
自分は才能がないから。
或いは逆に、自分は才能があるから。
自分は努力したから。
或いは努力してこなかったから。
そんなことを宣ってなんになる。
その時間を自分の心のままに生きることのほうがよっぽど今以降の自分に優しい姿勢、行動だと思われる。
努力や才能があるとかないとかどうとかそういうのはもうやめよう。
環境に導かれた結果が受けいられないなら苦しめよ。
世界はあなたが大嫌いだから、あなたのやることなすこと邪魔をしてよしんばあなたを殺したがっている。
だから何だというのだ。
自分がこの世界にいるという認識をやめよう。
自分が認識するからこの世界があるのである。
この世界は主観のゲームで、あなたはあなたの心の、人生のオーナー、マスターだ。
その結果殺されるとか虐げられるというストーリーを押し付けられるかも知れない。
何をしても無駄かも知れない。
余計なことにまた時間を使ってしまうかも知れない。
例えばこの記事は2023/12/23/19:54頃に書きはじめて、今は20:01だから、わたしはこの主張病によって7分も余計な時間を使っている。
ノートは異常にスキされすぎる。
明らかに自然な環境ではないと感じられるが、証明する情報を持たないので、陰謀論のようにその疑惑だけをここに記しておこう。
そんなことたぁどうでもいいんだよ。
まあ全部どうでもいいんだがね。
すぐそうやって逃げる。
だから進まないんだ。
際の絵や努力という言葉に逃げるなよ。
それがあるでも、ないでも。
関係ない。
やりたいならやれ。
やめたいならやめろ。
あーでもないこーでもないと悩んでいるうちに、一年、二年と経って、その結果10歳、20歳とあっという間に年を取り、いつのまにか人生は終わってしまうのだろう。
変な頭を使うのはやめましょう。
才能や努力なんてただの二字熟語だ。
そんな小さなものが我々の人生を
これは実は環境や遺伝子にも言えることだよ。
それらが全て「真」「実在」するとしても、あなたがそれに宣うことに対して世界は価値を感じないし人気が出ない。
笑えない。
面白くない。
そんなことには広がりがない。
広がっていかないことは、自己満足できても、後悔しなくても、いずれ立ち行かなくなる時が来るだろう。
立ち行かなければ死ぬのか?
そんな簡単に死ねるならばもう十年前には死んでいたよね。
そして奇特な人だけが興味深いと人間観察しに小蝿のようにたかってくるだけである。
しかしそれは自分の人生になんらプラスにはならないだろうよ。
この世は現金。
悪いとされてることをしよう。
清廉潔白になどなるな。
自分の胸の内の為だけに世界を傷つけろ。
みんなそうやって世界を壊してきた。
わざわざそんなこと言わないだけで。
だって自分が世界から嫌われるだけだから。
私は万人の嫌われ者であろうから敢えて言うんだ。
何度でも繰り返す。
才能や努力なんてただの二字熟語で、名詞だ。
教育にやられすぎて、おかしくなってるんだよ。
我々のクオリアを共有し切るのにさえ言語は不完全なものなんだ。
概念なんて正しく我々が扱えるだろうか?
あつかえるとしたいのならばそれでいい。
それでこその多様性である。
この記事そのものがやらないことへの言い訳にもなってしまっている。
全ての余計なことを廃して集中せよ。
やりたいことをやるな。
やりたくないことをやれ。
心の欲求のために、やりたいことをやるんじゃない。
それは心の欲求次第では犯罪者とかになってしまう。
心の欲求のために、やりたくないことをやるんだ。
しつこいくらいにこれももう一度書くが、あなたは世界に嫌われているから、きっと何をしてもどうしようもないのだろう。
でもそれはやらない理由にならない。
イチローだって言ってたろ。
できるそうだからやる、できなさそうだからやらない、それでは後悔が残ると思う。
難しいことはやめる理由にならない。
それはただ難しいことがヤなだけという、脳の反応、本能のようなもの。
どのような達人も1日にしてあらず。
それがブルーオーシャンや追い風による下駄で得られたラッキーだとしても、環境だとしても、積み重ねがあるんだ。
何も積み重ねなければ何もないなんて、空間を見てみれば明らかだ。
何かを積み上げるからそこに存在感がうまれる。
何もしなかった場に何もないのは当たり前のこと。
それがどんなに仕方がない、苦しい、可哀想な理由があろうとも、世間様はクソッタレマゾヒストのゴミクズボケカスタコアホバカなので知らぬ存ぜぬである。
自分の立場になってみれば平気で使うだろう、知ったこっちゃないってやつだ。
誰も他人のことなんかどうでもいいんだ。
他人に対して何かするときは、それだって自己満足にいきつくエゴイズムだ。
そうしてまたこの誰かの言葉が誰かに影響を与えてしまうんだろうか?
くだらないな。
くだらないなって言いたいだけだが。
わたしが記事を書きたいと思う気持ちも、主張欲も、どこまでが私のものなのか。
もうすでに世界は壊れてしまった。
そらは私の認識する世界観がほどかれてもろもろと輪郭を失ったのか、それとも客観的にも壊れているのか。
古くは北朝鮮拉致被害から、PRIZM、ジャニーズ性被害、政治の裏金、政教癒着。
ないとされることはあり、ありとされることはない。
平等、機会、平和、文化、そんなものはない。
欺瞞だらけのこの世界が嫌いでも死ねない無になることが耐えられないという意気地なしと たちよ。
言葉に頼るのをやめましょう。
行動にだけ頼るんだ。
言葉を綴るのは行動ではない。
それが行動になるのは一度でも立場を得て人生が軌道に乗った「人気者」だけだ。
言葉で人気者になることはできない。
もしそのようなものがあると思えるのならばそれは言葉の力ではない。
その人のキャラクター性またはそれを演出してる演出力など、挙げることはできるが、多様でありキリがないので割愛する。
多数の支持を得られやすいヒロイズムはもっとも想定に容易な例かもしれない。
その人のキャラクター性の演出力というものは、その出力道具として言葉を使うことはあってもその本質は言葉ではない。
とする考えもある。
こうしてわたしはあなたが頑張ってここまで登ってきたこの梯子を外し、あなたを理解不能の奈落へと落とすのである。
誰かが見たら笑うようなことだからといって、それが間違っているとするのは早計だが、これは誰かが見たら笑うようなことだろうことは、想像できる。
失笑か、或いは失笑(誤用)か、失笑(My定義)か。
だからあれほど言ったでしょう。
ナイフを手放せ、ノートを手放せと。
スマホなど捨てろ。
インターネットやめろ。
文字を書くのをやめろ。
文字を読むのをやめろ。
世界と関わるのをやめろ。
知ることをやめろ。
これを続けていくと摂食をやめろ、呼吸するのをやめろという、虚無へと至る予感があるので、これをやめろ。
わたしはわたしの言い回しを言いふらし、これはきっと私を将来後悔させる、わたしに将来が、あればだが。
歳を越せるだろうか。
死にたくはないが、生きたくもないんだ。
というよりこの場所が気に食わないのだ。
しかしここ以外に意識の置き場がないのだ。
私という現象には答えはないと、頭が疲れる思考の発露、シームレスチェンジの作詞即興、あなたは断る「もういいよ」
「ありがとうございました」では終われない
漫才?
難解?
つまんない?
知らない 要らない 与太話。
ただの本音 いやこれ設定
私と言うのなの人格体系
てめえの感想はここにおいてけ
ヒップホップはサックなジャップに犯され
ナイフはいつまでも手を離ねえ
「ねえそこのひと」
「どうかそいつでこいつをちょっぎっておくれ」
ふる〜〜〜〜いグリムにでもありそうな話
意味はねぇ
ってそれナンセンス文学
とかなんとかそう言っときゃいいとでも思ってる?
丁寧な酩酊に予定をディフレイ
「なんかそれって懐かしのルー語みたいね笑」
あーもーやめやめもう二十時四十二分だし
それこそここに書いてあることだってただの文字列でしかないし
わたしゃどこにもいけないのよとおずおずと泣き
いやその副詞は適当じゃないでしょうと思い
頼るのはやっぱりインターネットでしかない
もうこんな世界やだと溶けてしまいたい
どうしようもない自分という総体の中で出口なくフレイ
「誰か助けて」が許されるのは可愛い女の子だけ?
いやいや男でもいけるよとイフ分は括弧美形
ただイケただイケ
ただしイケメンに限るとかいう男が一番嫌い」
俺も嫌い、そういうこと言う女が
あと多分別に一番じゃないだろ
というかきっとことあるごとに一番何とかとか言ってるんだぜ
安い一番だね
サイコーって言うのはもう古くて神っていうのももう古いけど
ピノキオピーが神っぽいなをバズらせる10年前には
まとめサイトで見たぜ「神のバーゲンセールだよね」ってお告げ
それが10年後に流行っちまうなんてね
思ったことを捨てるのは本当にもったいないね
けれどそれが拾い上げられるのは限られた人だけ
努力?才能?私に言わせれば「環境」
しかしてそれもただの言葉でしかないのだし
それが正しいかどうかというところで思考議論を止めることこそが「奴ら」の目的であるし
奴らって誰って?
らりるれろさ
などとのたまい

あーあ。

あーーーーあ。

、で、

気づいたら20:51分ですよ。

主張病のつらいところね、これ。

やめたい。

なにを?

おれはわかってるぜ

  
 
おまえゎ?

スクロールお疲れ様。
疲れたでしょう、おやゆび。
いや、膳膳。


















どの膳だよ。

音作りに疲れ(憑かれ)

線画作業に疲れ(憑かれ)

いくあてもなし

  

「まもなくきょう」はなんか「くりすます」というらしい

いゔだった

ゔぁ

昔あなたにあったことあるわ
体育館であったひとだろ?
そうだあんた間違いないさ

ぬぁ

ねむいだけ

ねりゃいいね

なにこれ

何この改行ねえ

しらねえ

ふがいねえ

しねばらくになると
せかいにころされるの

知ったことかよ
言ってろよ
やるだけやってみるよ
知ったことかよ
やってろよ
寿命だけ生きてみるよ
知ったことかよ
知ったことかよ
知ったことかよ
知ったことかよ
全部もう知らない
知らない方が楽で楽しい
無知は平和である
鞭こそが平和である

それはパイ生地に似ている
無知の利点と欠点の上に、ゆーなれば、「有知」の利点と欠点の上に…ずっとずっと、どこまでも続くパイ生地である
終わりはない

私は今どこにいるのだろう






無知か











有知か













知恵者を自認する誰かさん
うつけを自認する誰かさん
それも座標の問題で
二値的な話じゃあないんだよ
世界はアナログなのに
何でもかんでもデジタルデジタルって
努力才能だって似たようなもん
二者択一
意味のない対局
いにしえの中学生が好きそうな光だの闇だのみたいな

スターウォーズはいにしえの中学生だった?

僕らの明日は闇でも光でもなく











んー










そこにぼくと








ぼくがいるだけで

ぼくしかいないやん

ぼくだけしかいないまち