サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

怒りや憎しみ、執着を取り除けば楽になるか それは問題の根治ではなく逃避ではないか

少し仏教の影響がある考え方かもしれないが、怒りや憎しみ、執着を手放せば楽になるだろうか、とふと考えることもある。
私が解釈する仏教の一部はめちゃくちゃ雑に言って「死にたくねえ」「老いたくねえ」「病みたくねえ」「生きたくねえ」をなんとかする為にそれらを「諦めること」=「受け入れること」、そしてその為の実践としての禁欲的なストイックな修行があるのだと解釈している。
インスタントにコンビニエンスに、短い特定念仏だけ唱えていれば幸せになる、などと言うカルト的魔術的スピリチュアルなどでは断じてなく、釈迦の仏教というものは、どこまでもリアリズムに、シビアに、執着を手放す為の厳しい修行が必要だというものなのではないだろうか。
なんかその辺の話は、懐かしの大乗仏教とか、上座部仏教とか、そこら辺の話に通じていると思うが、その辺の専門的な話は専門家が腐るほど書いていらっしゃるだろうし、教科書でも習うことだから、改めてここに書くことはしない。
じゃあおまえ不勉強な無知無知自己解釈やろーじゃんって思われても構わないのだから書いているのだが、そもそも仏教を「勉強」することは難しいように思う。
釈迦は書物を残したか?
どうやら残していないらしい。
これ他の「大きな宗教」にも言えることだが、その開祖やら預言者やらが直接書物を残していなさすぎる。
大体が弟子が書いた開祖の教えとされるものだけが今日まで伝わってるとされている、と認識している。
それはたがうよ、ということがあればコメントなどでお知恵をお借りしたいのだが、別にマサカリこなくてもそれはそれで構わないなぁ、と強がっておこう。
で。
そもそもそんな私たちが生まれる何千年も昔の話、常識上の史実だけでも腐るほど争いもあった中で、いったいどれほど失伝せずに正しく伝わっているのか、甚だ疑問だ。
それを結局「信じるか」「信じないか」が信仰というのならば、大概の日本人よろしく「自分の自我だけを信仰したい」。まあその「大概の日本人」は、私の頭の中の想定日本人像なので、それこそ誤りを含むだろうね、ってんなこたぁどうでもいいことなのよ。
大事なのは、数千年も昔が、ちゃんと伝わってるの?ってところから、とっても訝しげに思えてしまうかどうかというのはきっと、生まれ時からどれほど常識として信仰が生活に組み込まれているか否かに起因すると思うと言うこと。
結局やっぱり環境である。
いつだって、なんだってそれさ。
多くの日本人の葬式は仏教ライクな形式が行われているだろうと認識しているし、日常生活のそこここに実は仏教的な要素というのは、ありふれて転がってたり染みついていたりするとは思うのだけど、いかんせん、強烈な信仰を抱くには至らない程度の、物分かりのいい程よい圧力の宗教でいてくれているという認識だ。「この一文、クソナゲーな。)
それが良いか悪いかの判断は兎も角として(仏教繋がり、マインドフルネス的思考で言えば、「判断」というものは重要な概念である。判断を避けることがマインドフルネスでは推奨されている、と、認識している。
いい加減、この「認識している」という「それは私の中の観測結果なのですよ、事実とは断言しませんよ」とでもいうような保険が、目障りに思えてきた読者(絶対この文字列をちゃんと読んでる人間はこの世に存在せず、スキは何らかの意図を持ってハートを押してるだけ或いはマシーンにスクレイピングさせた結果の特定単語への反応の結果だよねなど、そんなこともまあいまは、いいじゃあないですか)も多かろう(だからいないって)。かくいう私はいちいち書くのがだるくなってきたので、以後省略する。
そういうつもりで読んでくれ。あなたの文字認識のシステムにこの記事を読み終わるまで限定で文末に


と、この「設定上の"私"さんは認識している」のでした。

サフィックスしてくれ給へよ。
知らんけど
なんか疲れてきた
もうやめていい?
なんでこんなことしてるんだっけ
それを言っちゃあおしまいよ
うん、これで読者は0になったな、ヨシ

骸にもなく端折って書くが、よく言われることとして日本人は信仰心が基本的には薄いよね、と。
一部カルト的な例外はあるけれど、そうではない大多数の日本人にはさしたる確固たる信仰もなく、そこらへんは本当地テキトーだよね、という印象。
うーんでもそれもただの印象、実際はどうなんでっしゃろか。
こう見えてこの人生でオウムも創価もエホバも大山ねずも大本もキリスト教ユダヤ教イスラム教もヒンドゥー教も関係があったといえばあったので、割と巷に宗教って溢れているなぁという認識もある。
世の中一般の認識として日本人は無宗教、或いは八百万的精神からくる全ての神仏を受け入れてしまうみたいな、現代版神仏習合みたいな、そういうノリがあるように見せかけてはいるが。
その実は実はあの子もあの人も宗教n世みたいな、そういう世界が日本なのではなかろうか。
思い返すとほんと、わりかし宗教の影がちらついているんだよなぁ。
ま、それはともかく。
それでもやはり、多数の日本人は信仰心がなく、無宗教
ただ漠然と死後は盲信しているから、平気で来世とか前世とか宣うし、死について真面目に考えるつもりがないから、そして「あたたかみのある願望」として、身近な人が亡くなった時に思い出したかのように「空の上」とか「あっちで」とか、あの世がある前提の発言を軽々しくなされる。
まあそれは、そうあって欲しいというやはり「あたたかみのある」「願望」なのだろうけれども。
それを否定しても仕方がないんだけれど、それが原因で「来世で完成させる」とかいう遺言残して軽々しく自殺する中学生とか見てると、否定したくもなりますわ。
閑話休題
まあなんにせよ日本人の宗教は圧が弱く、存在感が薄いよね、という話。まずそんな話。よく言われるけどね。
意識することは稀ではあること自体は、日常に染み付いているいえるが、それにしたって諸外国の比較すると「やんわり」した感触だなぁと。
米国ドラマや映画やゲームや漫画に普通に絡んでくるキリスト教とか、中東のイスラム教とか、パレスチナユダヤとか、そこら辺を思うと、やはり日本人の宗教感は薄いなぁってね。
いい加減しつこいね、次へ行こう。
そんなわけで信仰心があんまり猛烈で旺盛じゃないもんだから、そういう常識のの空気感に影響された結果として、わたしは各宗教の教えがちゃんと伝わっているか疑問を懐く、懐ける、懐けてしまうのだろう、と分析する。
だから書物を著していないらしき釈迦の考えを弟子がリレーしていった現代の仏教についても、その一つとして宗派の学びを収めたわけではないが、「どうなんすかね…」というのが、関係者には不愉快かもしれないが思ってしまう。

おうっと、、、、勘違いしないで欲しい。
これを書いているのは「私」であって僕でもボクでも俺でも自分でもアタイでもあたしでもウチでもワシでま俺っちでもねーってことは断らせてもらうぜ。
この記事において私とわたしは同義ではあるだろうけどな。
というクソったれ文字列をサンドして、と………よし!

だからわたしは私の中の仏教を信じているのだけれど、修行をろくすっぽしていない私は、その真髄に触れることはできないだろうなという予感がある。
迷いがあるのだ。
執着を手放す、怒りや憎しみの矛を収めるということに対する、迷いが。
また同時にそういったものを否定するのではなく存在するがままに受け入れるべしとする考えも存在している為に、余計に、迷う。

私は世間が多様性という三字熟語に狂う20年も前から、自身の中に多様な価値観が共存することについて常々皇帝していたいと思っていた主義の人間なので、矛盾するような相反する思考さえも両方を真として両立したくてたまらない。
それこそが私を迷わせ惑わせているのかも知れないが、今更この思想への「信仰」を捨てるほど、私の自我への関心は年季の浅いものではないのだ。
なんてったってわたしはわたしの自我にしか関心がないからな。
なんてね。
それはただの他人の言葉だ、軽々しく使うなよ。

やっとこさ本題に入るのだが、人は怒りや憎しみ、執着を手放せば、楽になれるだろうか?
苦しみの原因が執着であるという着眼には積極的に共感と同意を示したくなるほどの説得力がある。
宗教とは説得力なのかも知れないな、などと余計なことを思いつつ、それを手放す或いは克服するのとが苦しみを取り除くないしは我が物にする方策なのだとする理論はわかる、と添えたい。

だがやはり、迷う。

執着を断ち切るのはそんなに簡単ではない、どころか、殆どの人間ができていない、かなり難易度の高い理想論、言ってしまうと机上の空論にさえ思える偉業だ。
釈迦をそれを成したからこそ悟りを開いた唯一の存在なのかも知れないが、なかなかどうしてそれは難しい。
関係ないけど、スジャータめいらくグループのせいで、スジャータってきくとあっまい濃縮還元フルーツジュースの記憶上の味覚情報が脳内電気信号によってサルベージされあーもーのみたいのみたいのみたーい。
って、こういう執着すら手放すんでしょう?
知ってしまう前ならいざ知らず、知ってしまった後にそれを手放すというのは非常に難しいように思えた。
まさしく苦行。
うーん、ここら辺書いてて、わたしが「伝わっている釈迦のこと」をカケラしか知らんなというのが自覚されたので、今更恥も外聞もないわけではあるはずなのに、今更ここらへんを訳知り顔で書くのは「恥ずかしいな」という懐かしいの感情が湧いて出たので、一旦ここまでしてこの記事は区切るかなぁ。

ま、執着を手放し、怒りや憎しみの矛をおさめられるならば、それは確かに苦しみから解放される有効な一手であるように思われるのだが…。

第一にそれが現実的に殆ど実現困難に思える、果てしない修行の先に、至れるかどうかも不明な、苦行の道であるということが、ひっかかる。
わたしは聖人でも賢者でも勿論ないからな、修行を乗り越えられる自信は自慢じゃないがないぞ。

第二にそれは問題の根治ではなくて逃避ではないか。執着があるならそれを叶える為に動いたほうが健康なように思う。勿論、叶わないまでは苦しみの連続かも知れない。思い通りにいかないことばかり。しかし主題のその手放すとか収めるというのは、いい方を変えれば諦めであり見限りであり気にしないように必死に耐え忍び我慢する世界であるように思えることから、いずれにせよ苦しみはあるではないか、と「叶えるまで苦しい」という反論に対してはぶつけまい。また、叶えた後も、それには際限も治癒もないという考え方があるそうだが、そんなもんはかなえてみてその時自分もそうだった「やっぱりそれが正しかったんですね」と心を入れ替えればいい話ではないか。普通の人々が当たり前に手に入れられている幾つものことについて持っていないことに種着してしまうのをまず叶えさせてくれよ。その上で際限がなければ身の丈に合わせて調整していくからさ…。

などと思うことから、それが現実的には実現困難な机上の空論にのように思えるのである。

ちょっとこの時間は頭が働いてあなくて、何言ってるかわかんなくなってきたので、一旦ここまで。2023/12/21/22時間

あーあまた時間を無駄にした
思う壺だ
でも気持ちはあったよね
気持ちはあったけど環境がついてこないんだもん
強制的待機がなければやってるんだよなぁ
ああ羨ましい
捨てたいね、執着
煩わしいから
でも煩わしさも自分の一部、心の一部よね。
それに叶わない苦しみの中で叶えようとしている時は案外楽しかったりするもんだぜ。
得てからやさそれでも苦しいなら執着を捨てたらいい。
最初から諦めていたら得られたかも知れない機会すら蔑ろにしているのではないか、という錯覚を覚えるよね

本当はこの世界がなんの報酬も偶然もラッキーも用意していないのは最近よくわかってきたことだが

まあもうどうしたって叶えられないことというのはあるから、そういったことについては執着を手放すしかないのかもしれないが。

本題に入ったところでめんどくさくなったのでまた今度に続く……