サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

環境が全て

環境の支援があってはじめて人は成功できる。

わたしは自分の力だけで勝ち取ってきたと考えている人間は気づいていない環境要因があるだけのこと。

古本屋で参考書を買ったアイドル東大生などは、それが何歳の話なのか書いてないのがまず問題だが、

  1. 参考書を買って勉強するという着眼
  2. 参考書が古本屋にあるという情報
  3. 参考書を買うだけのお小遣いという富裕
  4. 参考書の勉強に打ち込めるだけの家庭環境

瞬時に思いつくだけでこれだけの環境要因に恵まれていたからそれが可能だったということを無視している。

世の中には親にお小遣いをもらえない人間もいるし、それどころか小学生から新聞配達などをして金を稼がなければいけない人だっている。

わたしも小学生の頃新聞配達をしていた。

他にも家業を手伝わされたり、人によって環境は異なるのに、「努力」だとか「環境」というただの名詞に全てを押し込もうもするのは、人間主体への冒涜だ。

人間其々が持つ複雑さがただの二字熟語に総括できようはずもないが、ずっとテキスト格闘してきた「一部の」東大生のような「勉強バカ」はそういう考えに至れないから馬鹿にされるし間違い続ける。

それに加えて「俺は東大やぞ」という自認が自己の間違いに気づく為に必要な懐疑を奪ってしまうから、きっと一生その事実には気づけないのだろう、まあこれは妄想だが。別に、「そうあってほしい」という呪いではない。気づいてくれるならそれで結構。そうだとしても世の中は全く何もかわらないが。

それぞれの環境の話を続けよう。

なにもそれは、お小遣いだけの話ではない。

世の中には金銭的に苦しい「上に」、勉強に打ち込むだけの時間も心の余裕も、勉強すれば勝ち上がっていけるという情報も与えられていない子供が沢山いる。

それだのに自分の経験してきた家庭環境や知人の伝聞家庭環境から「普通はこう」「これが一般的」というものを「勝手に」定義して自己満足げにその前提で他人の「環境要因が全てである」という主張を否定するのは、ただ世間知らずなだけと言わざるを得ない。

世の中には兄に幼稚園から小6まで児童淫行され、姉に物心ついてから中3まで毎日叩かれ罵られ

階段から落とされたり、枕を押し付けられて窒息死しそうになったり、起こすだけなのに何発も肩口を殴られたり、

そういう経験がない恵まれた人間が無闇矢鱈に自分の中の「みんなの普通」を振り翳して石を投げるな。

お前は何も知らないし、大した人間でもないし、所詮は環境要因に与えられた道を辿っただけの一端の無能なのであるから、そのことを自覚せよ。

これはほぼ全人類に言えることであっておまえだけを罵倒しているわけではなくただの事実で有る。

イチローや大谷選手が違う家庭で生まれても同じ結果を出せたらとするならば、誰しもが彼らと同じ結果を出せなければおかしい。

もちろん遺伝子要因もあろうが、わたしのいう環境は、最も広義的な意味で使う時と、広義の意味で使う時と、そうでない時があるが、最も広義の意味では遺伝子すら環境要因である。

生まれは選べないのだから、それは与えられた環境だ。

そんなこと断るまでもなく、遺伝子だけで人間の人生が決定し得ないことは当たり前に想像できることだと思う。

生育環境というものが異なるから人の着地点は変わるのであって、歪んだ家庭に生まれなければわたしも今ここでこのような「抗議」「持論」を展開することもなかっただろう。

わたしだって東大に行けるような環境に恵まれたかったし、大学に行けるような環境に恵まれたかった。生活保護世帯には奨学金が降りないとか、分籍したら保護費が下がるとか、そういうことを知らない人が石を投げるべきではない。

家族の反対、教師の反対、周りに敵しかいない中で、「勉強の重要性」の気づきを環境から与えられてこなかった人間がそう言った場所に到達するのは不可能だ。

もし「ネット」や「テレビ」に「これこれこういう悪環境なのに達成しました」という例が紹介されたならば、それはこの事実を否定するためだけに用意されたプロパガンダであり歪められた情報、ないしは必要ない情報開示が欠落している。

どんな環境要因がその人の人生にどう影響を与えるのかを深く考えないで、ただの属性で人を分類するのはゲーム的というか、ビジネスライクというか、いずれにせよ人間実態からは程遠い。

先ほどの東大生の例で挙げたように、本人が気づいていない「当たり前」は恵まれた要因として数えられない、それが世間の多数派にとってもそうであるなら尚更だ。

ご存知の通り今のご時世過半数が大学進学をしているので、それができなかった、しなかったものは少数派側となる。

また東大生というだけで箔が付くように、人は権威性に弱く、成功者の言うことを真実だとしたがる思考傾向があるように思う。

よって尚更に進学できた者の言う事が正しいとされてしまうし、東大生がいうんだからと信頼を勝ち取りやすい。

成功者側の方が権威性、つまり社会的信用も、金銭的な余裕もあるので、自己の発信を正当化しやすい。

人気がある、と表現してもいい。

人気があることは正しさや真実よりも人々にとっては信ずるに足る根拠となる傾向がある。

人気がある人間の言うことは正しく、ない人間の言うことは間違い、意識的にせよ無意識にせよそんな単純な思考回路が人々の中で蔓延しており、また人気がある故に拡散力も高く、仮に人気のない正しいものが適切な指摘をしてもそれは情報の濁流にのまれ電子の海底で誰にも気づかれずに埋もれていくだけなのであるから、いつまで経っても「人気者こそが正義」という風潮は変化しない。

これは感覚的に衆愚政治に似ている。

意図的にせよそうでないにせよ、権威性の持つものがやってることは衆愚政治なのだ、と言い切ってしまってもいいとさえ、わたしは思う。

さて。

断っておくがわたしは東大生のことは尊敬しているし好ましく思っている。たとえ彼らが僕のことを嫌いでも。自分は大人になってからやっと幾つかの出会いや体験よる気づきをという環境要因によって学びの重要性に気づき、コンピュータサイエンスを学んだ経験があるが、その時に東大生の書いた専門書はとてもわかりやすかったし役立ったから、その実体験、一次情報を以て「理系の」東大生のことは本当に尊敬している。

それでも彼らがやはり恵まれた環境によってそこに至ったというわたしの事実は別に棄却されないし、併立できるものだ。

 

親がなんもしてくれませんでした、金策炊事掃除洗濯全部自分でならなきゃなりません。

ボロを着てたのでいじめられました。しかも家は荒れに荒れて暴力が支配し居場所はどこにもありません。

勉強に集中する心の余裕も金銭的余裕も時間もありません。

そんな人間が成功できるわけがない。

そしてそれを世間が、いや、世界がヨシとしている。

格差がなんだと問題視している風を装っているが、それは滑稽なパフォーマンスであって本気でどうこうしようという意志、働きはそこには全くない。

一部の蒙昧な下層の者達の溜飲を下げる為の見せかけのものであり、同時に中層の連中に「問題意識を持ってることによる自己満足」を与えるための娯楽でしかない。

そんなことだから意識的に取りに行かなくともすぐにありつけるような「押し付けがましいメディア」のニュースに価値はない。

誰も他人のことなんて知っちゃこっちゃないというのが最早この頃では包み隠さなくもなりつつある本音であり、「俺は嫌な思いしてないから」を全人類でやろうとしている。

他人事主義の蔓延は留まるところを知らず、遠くどこかの誰かに一時思いを馳せたとしてもそれはやはり娯楽の域を出ないのであろう。

勿論、本当に他者を救済しようと働きかけている極小数の人間がいることまでは否定しないが、焼石に水滴程度のものである。

社会全体の意識がその加虐性を取り下げない限りは世の中は変わらないが、多数は世の中が変わらず現状維持さることを望んでいるので(何故なら自分らは困ってないので)、それがなされることはないだろう。

格差はなくならない、それは当たり前のことだ。我々が物理現象である以上、それは避けられないことだし、それ以上に、積み上げたものを誰も手放したくはないのだから。

そうしてまことしやかな成功者の言が喧伝され、落伍者はその反論に逐一リソースを割かれ、ますます人生を落ちぶれさせていくのである。

だから解決方法は簡単なことだ。

世の中は変わらないし世界は加虐的であり人間本質は極めて強烈な悪意とグロテスクな薄情さであると認め、一々反論をしてそれを承認されようとする欲求を無視し、余計なことにかまけず、他人に惑わされず、自分の思う通りに生きよ。

それだけが解決方法だ。

他人は馬鹿なので何を言っても無駄、という「それはちょっと違うんじゃない」と反感を買いそうな(なんなら自分の中でパフォーマンスとしてその言葉を掲げた時点で別の自分がそう言っている。)ことを言い切って、くだらない主張をするのはやめよ。

くだらないとはそれが価値がないとか意味がないとか正しくないとか、逆にそれらがあるだのということは関係がない。

反応に躍起になることこそが娯楽主義の馬鹿どもの思う壺であり、全く愚かな脊椎反射と強く批判したい。

落伍者よ、ナイフを捨てよ。

反論をしても時間と思考の無駄だ。

言いたい奴には言わせておけ。

そういう風潮を野放しにしたら益々世界がそうなっていくと懸念するのは理解できるが、反論したところでその風潮に変化はない。

何故なら、これはもう何度も書いてきたことだが、弱者の主張には誰も興味がないし、興味を持たれないように誘導されているし、そもそもプラットフォームの提供者は常々弱者ではなく、彼らの指一本でインプレッションだって制御できるのだから。(それが行われているかどうか、各プロットフォームで許可されているかどうか、制度上と実態の乖離など、そう言ったことは全部関係なく、それがただ「可能である」という話だ。)

主張するのをやめよ、時間と思考の無駄である。

自分の人生を生きよ、他人に惑わされるな。

 

"街のノイズに惑わされるなら時を忘れがむしゃらに引きこもれ"

 

そう誰かも言っていた。

 

何も気にするな。気にしてもいいが、無視せよ。

世の中に期待するな、世界は素晴らしいが、同時にゴミである。

他人は悪意しか持っていないので、思ったことを軽々しく明らかにするな。

成功するものは最初から決まっているから、成功に焦がれるな。

何をしても無駄だから死のうと言う思考回路こそがそんな社会に誘発された結果の最たるものであると知れ。

本当に必要な考えはそう簡単に手に入らないしそう簡単に辿り着けるものではない。

結局どうしたらいいかと言うインスタントな答えを求めるな。

結論主義は成功者のものであって弱者がそれに倣っても人生を改善せるものではない。

 

なあんてね。

本気にしましたかしら。

うそですわうふふふふ。

あらやだこの行を読んでらっしゃるの?気色悪いわぁ、ヤダヤダ、あっちいっておくんなまし。

 

 

 

少数派だからと切り捨てた人々の怒りを買っても、彼らが弱者故に問題ないとするから、だから、無敵の人によるテロ行為が後を絶たない。

 

無敵の人の思考回路はイスラム原理主義の思考と通ずるものがある。

 

あなたの思考と行動に本来価値はない。人々の人気が価値を決める。人気は容易く移ろい信頼性のないものであるが、そう言うものだから仕方ない。

 

世の中の全てが嫌いでも、死んだ先には何もなく、故に生きるのならばこの世の中しかないのであるから、そういうもんだし、「しゃあない、切り替えていこ」と前を向こう。

 

漫画のように展開を変える言葉や機会などありはしない。演出と現実をごちゃ混ぜにするな。表現と現実をごちゃ混ぜにするな。それはただの表現だ。表現が人間本質を超えることはない。表現はただの表現だ。

 

何を考えても仕方ないし、何を言っても仕方ないという思考は危険であると、混ぜっ返してまた振り出しに戻そう。一生悩んでいるがいい。そのうちに人生は終わる。

 

人生を変えたいならば今までやってきたことの全てを否定するのが最も大きく変化をもたらせるのではないか。

時間の使い方、日々やること、どこに居て、何を考え、何を表出するのか。

今現在成果の出ていない行動は全て切り捨てよ、それはあなたの足を引っ張るものでしかない。

 

などとあたかも全く売れない自己啓発本のように謎の命令口調を並べ立ててみるテスト。

 

特に意味はない、なんて、うそ、これもうそ、いやうそかわかんないだろう、なんでわかると思ったゎけ?

 

終わりどころがない。

 

やめまひょ

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

あなたがこれを読んだことによる益はない。

 

文字を読むときに脳内で音声化するタイプの人間であろうとなかろうと、認識した時点でそれを否定する術を半ば失っている、肯定したいのであれば誠にその通りになさい、それを神も望んでいらはる。

なんて。

 

自殺はするな、来世なんてないから。

無になることの意味をちゃんと理解した上で自殺したいなら止めない。したいようにしたらいい。心のままに生きる事が犯罪ならばそれも仕方ない。そのような人格形成に至った環境要因があったのだろう。

 

「普通の人間は」そうはしないんだよ。何故ならそのようにしないリミッターが設けられているからね。そうでなくとも、そのようなことをする必要性がなかったりするんだよね。

 

虐げられた人間のリベンジを娯楽にするリベンジを憎しとリベンジすることをまた笑うリベンジが . . .

終わらない報復の連鎖が . . .

 

一体いつになったらナイフを置く事ができるのだろうか

 

それこそ、死ぬまでむりなのかしら、ね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぷわぁ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嫌いを表明することは止したほうがいい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思ったことを書くことはやめた方がいい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

街にすむことは止した方がいい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんでも否定したいさん、なんて、そんなそんな、テレテレ、なんて、うそうそ、なんて、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この人格を殺す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殺せ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボス、あんたが決めてくれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボートを用意しろ。

一人乗りでいい。

水と食べ物を。

ボス?

出ていってもらおう

俺たちをこうした、張本人だぞ!

あの時の仲間もなのにこいつだけは

こう言う奴が俺たちの本当の敵なんだ!

そうだ、こいつは仲間じゃない、だから心に置いておくことはできない。降りてもらう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒューイまわりの「一方的な真実」と疑惑の域を出ない感じ、何かに似てますね、一つは眼鏡のブランドの人そのものの件と、もう一つはここでも起きていることです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分さえも持論を見限った時、世界は他論が正しいとよろこんで群がるピラニアでした。

わたしにはどうすることもできません。

もう、生きている事が虚しいのです。

何も考えたくありません。

ええそうです、これは本当ではありまけん。

私が本当に何も考えたくなかったのであれば、わたしはとっくに甲板に出ていって、淵に足をかけていたことでしょう。

そして数分後には何もかもが失われるのです。

憂いも、惑いも、憎しみも、嫉みも、苦しみも、嫌いも。

けれどわたしはそうせずにここにいます。

それはつまり私の本当の望みがそこにはないということを表しています。

わたしは何を望んでいるのでしょう。

答えは明白なように思えました。

わたしはいつも、何度も何度もそれについて考えました。

そして何度も何度も指を動かし、書き殴りました。

しかしいっこうに解決する気配が見られません。

これは何故ですか?

それこそ、答えは自明なのです。

書くことは───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなことをぉほんきでぇかぃてるわけがぁなぃじゃなぃですかぁ

スクロールおつかれさまでーす笑