サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

ピノキオピー「ありふれたせかいせいふく」の「ガスコンロ」の意味 他

ピノキオピーの2012年の曲「ありふれたせかいせいふく」をわたしが知ったのは2013年頃。当時はいじめについて歌っていると思っていた。けれど最近、この曲はそれに留まらず、もっと広範に、今の社会のディストピア性を鳥瞰して歌っていたのではないかと思い至った。

それにあたって後半の歌詞、特にガスコンロという長年意味不明だった歌詞の真意がわかったのでここに書き記しておく。

### ガスコンロの意味

「ガスコンロ」という語はこの曲の歌詞としては最後の最後に登場する。他の部分の解釈はできたけどここだけはわからないという人は多いと思う。斯く言う私も釈然としないまま誤魔化していた。さて。この曲はどんどんと歌う対象の規模がデカく普遍的になっていくという特徴があるから、その大詰めにくる歌詞の語ほどより規模が大きかったり深刻だったりしてくるわけで、そんな位置にある一見剽軽でさえあるガスコンロという家具はどんな意味があるのか。参考までにそれまでの同じ節回し部分の1番や2番の歌詞を見てみると「n歳もm歳も」だとか「●●さんも▲▲さんも」だとかいう風に、同系統のものを並べている様子も見て取れる。では「ガスコンロ」と並べて歌われているのは何かというなんと「陰謀論」と歌詞にはある。2012年当時は今よりも「陰謀論」という言葉が知られていなかった時期だ。まだスマホが一般層に普及しはじめてまもない頃だ。しかし「ガスコンロ」と「陰謀論」に何の関係があるのか?陰謀論について少し検索すると「ガスライティング」という言葉を知ることができる。それが答えだ。

### ガスライティング

詳しくはWikipediaの記事に譲るが、噛み砕いて言えば「相手に、自身の正常な感覚を疑わせる心理的加虐行為」のこと。語源となった「ガス燈」という演劇および映画は、夫によって妻が「自分はおかしくなっている」と思いこまされる筋書きだという。夫は様々な細工をしておいてから、いざ妻がそれを指摘すると、勘違いだとか気のせいだと言って、逆に妻の認識がおかしいと精神的に追い詰める。この映画から、そのような嫌がらせ行為などをガスライティングというのだ。このガスライティング陰謀論と関係があるのかというと、かなりある。陰謀論の一つとして「力のある組織が都合の悪い個人を社会的に孤立させたり自殺に導く為に、決して立証立件できない程に些細だがしかし執拗な嫌がらせを行なっている」というようなものが存在する。「ガスライティング」と直接の歌詞にしないのはその方が考察の余地が生まれるからなどというものもあるだろうが、どちらかといえばそれは主たる意図ではないのではないかと思う。主たる意図は「それを行う者」も「踊ろう」と巻き込みたかった、というところではないか。ガスライティングを行うものもせいふくするものであると同時にせいふくされるものである、同じなんだということを強調するための差配。そしてガスライティングを行うものだからガスコンロ。ガスライティングを行うものに決まった呼称はないが、ガスライティングを行うのだからガスで火を灯す現代の身近な誰でもわかる装置としてガスコンロを選んだのだろう。仮に「ガス燈」では現代人にはピンとこないし、いわんや日本人をや。そもそもピノキオピーひいてはボカロPというものは身も蓋もない歌詞は避けるし特に10年代前半のボカロ界隈ではそういう「考察」を要する歌詞が尊ばれた背景がある。

さて。

陰謀論ガスライティングを行うものさえも踊りに誘い「rat-a-tat-tat」という英語圏の言葉を使った真意とは?
そしてそのあとにそれでも尚対象不在の何者かに助けを求める悲痛な姿を綴ったピノキオピーの絶望は如何程か。
普通以上に赤い旅券は何を意味するのか。
この記事では歌詞の全文を紐解いていく。
ただし、歌詞は載せない。
必要であれば各々参照されたし。

「"せいふく"をするものも所詮はより上位の者に"せいふく"されている」というやるせの無い構造。
世界のありのままの残酷さは、11年の時を経ても決して変わらず寧ろ悪化さえしている。
その色褪せない普遍的風刺の名歌詞をもう一度洗い直そう。

### 一番はいじめだろう

蝸牛と言えばウスノロなイメージがある。
いかにもどんくさい人物像が浮かぶようだ
そしてどんくさいやつは舐められる。
舐められることは虐められる入口だ。

チッチッ言ってる音を旋律になぞらえるほどなので、それが一回やそこらではないし、沢山がそうしている様を思わせる。
嫌なポリフォニーである。

双方ピーマンに苦みを感じるなんて当たり前だ。
同じ人間なんだから。
…つまり、「同じ人間と思っていない」のである。
いじめっ子や加担者たちがいじめられっ子にそうであると共に、いじめられっ子もまたいじめっ子や加担者をそう見ていないのだろう。
そしてそれが大発見とまで言えてしまうほどには意外なことというか、それほどまでに両者は両者の認識で「別」なのである。

美形がこっちのもの、つまり人気、人望、だろうか。
この後の歌詞にかかるが「人付き合い」とも言える。
人付き合いの為に嘘をつく。

嘘なのに本音という矛盾が念の入りようを感じさせる。
それを突き通すという壮絶ささえも香るようだ。

痛いのを避けるのは本能であるから仕方がない。逆らえない、仕方ないんだ。事実を言っているようでいながら自分に言い聞かせているようでもある。決して開き直ってるとまではいえないだろう。不本意でも、そうせざるを得ないという事情の主張である。とでもいうような。

感謝も挨拶も謝罪も「最近聞いてないな」ということであり、「言ってないな」ということだ。そういったあたたかみのある言葉を「言わないし、言えないし、言われない」ような世界。それこそはいじめの世界。しかも、そのようないじめが「黙認」されるような冷徹な社会では段々と、そう言った「あたたかみのある言葉」は廃れ、失われていくだろうという予感までも同時に含んでいそうだ。

中学生だろうが中年だろうがいじめはありうる。いやある。なにもいじめは子供が学校でされるだけの問題ではないんだ。大人でも、会社や非営利団体、宗教法人でも行われているし、とてもありふれていて、多くの人が困っている。しかしどうにもできずにいるし、解決したい人も素知らぬフリの人も、みんながどうすることもできない。それはその後の歌詞も言っている。

〜さんとか、〜法よ、とか〜よという風ではなく、対象はなく、しかも続け様に繰り返して言って、まるで右往左往するように助けを求めている様が想像できる。
この表現は「わたしは助けることができない」ことと「解決できる人を知らない」ことを暗に物語っている。
犯罪者であれば警察、病人であれば医者を頼れるかもしれない。
だがいじめはどうだろう。
教師?
上司?
教祖?
ばかな。
教師や上司がグルだったり見て見ぬ振りだったりなんてよくあることだ。
事勿れ主義の日本で、問題のあるクラスやチームを受け持つ教師や上司だなんてレッテルは、いい大人は貼られたくないのである。
じゃあ社会?
まさか!
その社会がネットリンチなんて日常的に行なっているのに。
学校も会社もいじめ撲滅云々みたいな団体も頼れないし、頼ったところで全てが解決されないことは明らかだ。
これは根深く、人類はいじめというものを根絶できていないことからも自明だが、そのような解決方法の発明は未だなされていないのである。
頼るアテなんて、頼れるアテなんてどこにもないのだ。
だからアテのない、対象不在の呼び名なんだ。
そして助ける対象。
これまた「あの子を」とか「彼を」とかではない。
いじめがありふれていてそこらかしこで起きているから「みんな」が対象なのだ。
ここまでをつなげると、自分にはできないが助けてほしいと思っている人物像が胸中に生まれる。
誰も解決できないし誰も助かっていない、助からないかもしれないが、それでも願わくば、助けてあげてと思っている、哀れでちっぽけなそして身近な存在感が生じる。
これはそういう歌詞だから、当時から人気で、あの再生数を叩き出しているのも納得であるが、それはまあいいとして。

ご存知の通り、いじめというの自体がモロに「あふれたせかいせいふく」である。
これは最もわかりやすい「ありふれたせかいせいふく」の形であり、導入だ。
だからだろうが、ここらへんは当時のわたしでもなんとなくはわかっていたし、そして勿体ないことだご、この解釈でこの曲の意図を完結させてしまうということを、わたしはしていた。
しかしこれはまだ「序ノ口」であり、「ありふれたせかいせいふく」の形としては氷山の一角に過ぎない。
今一度強調しておこう。
「ありふれたせかいせいふく」は「いじめの歌」ではない。

■2番 「恋人」さえもが「ありふれたせいふくしゃ」である

2番冒頭は「いじめ」ではなく、言ってみれば「いびり」などによる「強権支配」を思わせる。
パワハラモラハラである。
いじめというものが基本的には個に対して集団が行うものである傾向が高いと思うが、こちらの支配は個が集団に対して起こしたり、個が個に対して行うものであることが多いだろう。
所謂「暴君」である。
いじめの主犯格もそうである可能性は高いが、いじめとそれは別のものであるとわたしは認識している。

さて。

ムシャクシャした感情をポイ捨てするとは何事か。
他人に当たる、尚且つ相手をゴミ箱か何かだと思ってる、そんな様が思い浮かぶではないか。
まして「グランプリ」であるからして、働く場や家庭内でよく見られる「イライラを表出させたものがち」現象。
「がち」なのである。
あいつは人にあたれていいよなーって比較的生易しいタイプの支配なら陰で思われてそうである。
そういうことをするのは大抵高圧的で傲慢で自己中心的な人間であることが多いと思うが、そのような人間は八つ当たりをされる側の事情などお構いなしであり、先ほども書いたが人をゴミ箱でもあるかのように自分勝手に当たり散らす。
だから「ポイ捨て」。
怒鳴りアホボケや、いびりクソ太郎である。(お局かもしらんので女郎かもだが。)
これはただのわたしの感想になるが、1番のAメロ同様とても意味が凝縮されている良い歌詞だと思う。

その次の歌詞が問題だ。
昔は意味不明だった。
アイロニーの意味を知らなければ当然解きようもない。
今ならわかる。
わたしは英語にも哲学にも疎いので、「アイロニー」という言葉が「風刺」や「皮肉」、「反語」のほかに、「ソクラテスに関わる概念」であることなど検索するまで知らなかった。
とはいえソクラテスは今回はお呼びじゃないようだ。
この曲の場合は「風刺」「皮肉」「反語」として読むとくと、この前の歌詞と意味がつながってくる。
少し考えてみてふとそのことに気づいた時には思わず「あっ」と声が出た。
それは「これ自体がアイロニー」であろうという晴天の霹靂である。
この場合のアイロニーの意味するところはつまり、遅刻した人に対して「やけに早いね?」と言うような「風刺」「皮肉」「反語」である。
ではそれに倣って元の歌詞に反対と思える言葉をあてがってみよう。
するとどうだ。
「年老いた」「憎たらしい」「直球表現」
となる。
はて、この一行前の歌詞はなんだったか。
その紐解きで怒鳴り散らすような高圧的な人間や、いびるような陰湿な人間が浮かんでいた。
人物像はともかくとして、「苛立ちを恰も此方がゴミ箱であるかのように当ててくる」という行動は歌詞上間違い無いだろう。
するとすんなりと繋がる。
そんな理不尽な不当投棄に甘んじるしかない此方の立場や境遇とは何事か。
それは相手の立場が上だとか、年齢が上だとか、凶暴性が上だとか、とにかく逆らえない状況だから甘んじるしかないのではないかと推察される。
例えば親や兄や姉、上司や先輩、それらではないが年長者、色々と場合が想像できる。
わたしが真っ先に思い浮かべたの会社の上司のおっさんと部下の若造という関係だ。
バイト先の「おつぼね様」と「新人」でもいい。
2番二行目の歌詞そのものがアイロニーであるならば、先ほども書いたようにその本当の意味は「年寄りの」「憎たらしい」「直球表現」である。
これはキツイ。
アイロニーというものは確かに嫌味ったらしくもあるが、一方でそれは一種のユーモア性も含んでいるとおもう。
それでいうと件の苛立ち不当投棄パーソンはそんなユーモアすら持ち合わせていないようである。
歯に絹着せないなんて肯定的にも捉えられることがある言い方では生ぬるい。
糖衣表現の下品で下劣な発言が目立つのだろう。
セクハラや、モラハラなどと呼ばれるものだ。
パワハラも含むかもしれない。
怒鳴り散らかして行っていいことと悪いことの悪いことの方を捲し立てるいやーな目上の人間の姿が、ありありと浮かぶようでは無いか。
これだけでも十分いやだが、或いは当該歌詞は「アイロニーの部分だけアイロニーじゃない」という可能性もあると言えばあると、わたしは思う。
その場合の意味は「年寄りの」「憎たらしい」「アイロニー」となりる。

一旦ここまで