サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

今後の世界はAI技術によって人類の全活動が無価値となり鬱が蔓延するだろう

AI技術が騒がれ出したのは2017年辺りだったろうか。その頃からAIに関する話題というやつが、指数関数的にボリューム増していったという肌感覚が、少なくとも今の私の脳には記録されている。そのサルベージによってそのすぐ隣の情報がむくりと鎌首をあげる。それは2017年よりも少しだけ前に、一つ大きな衝撃があった伝える。2012年頃のGoogleのAI技術による猫識別だりそれはは確かに一つのターニングポイントであっただろう。それから数年間、大きな動きを感知するほどのニュースは記憶を見渡す限りでは見当たらない。やはり2017年ごろから段々と、AIAIと騒ぐ記事等が散見されるようになっていたのだろう。そきて2019年、2020年のあたりには、ディープラーニングを使用した映像編集技術や画像生成AIが広く知られるようになっていたとのことである。それでもまだその頃は生易しい未来予想であった。「クリエイターは生き残り、単純作業な仕事は駆逐される」そういった論調が支配的であったと思う。画像生成AIをみてみても、いつもどこかおかしなところが目立っており、特に「手」に関しては非常に容易く奇形になるという状態だった。それが2022年頃までは続いていた筈だ。のだが。突然、それは改善された。(ように少なくともわたしには見えた。)そしてAI画像生成はクリエイターを食い始めた。大量のイラストレイターが解雇されたり、イラストの売れ行きが低下したりといった状態にまで一気に雪崩れた。あれほど「安泰」と一般論では空想されていた「クリエイター」は、その実まっさきにその被害を被ったのである。加えて「クリエイター」にとって悪いことに、画像生成AIの開発者や研究者、その組織のリーダー、投資家たちは、この事態をどうにかするというつもりはないらしいのだ。利用者がAIを使って人々のイラストを学習に無断使用し、タダ乗りによって成果物を生み出しても、それは利用者の責任という認識らしかった。AI技術を主導する人々は責任はおろか、規制をするという気概すら感じさせない態度で居直っているように見える。革新、技術進歩のために、「クリエイターは死ね」と彼らは暗に言っているのだ。挙句歴史を持ち出して、産業革命のようなものであるとする。このままいけば絵を描く人間は減り続けていくだろう。そして「ふーん。でも自分は嫌な思いしてないし。」と人々は他人事を貫き通す。

だがちょっと待ってほしい。これはなにも画像生成AIとイラストレイターだけの問題ではないだろう。例えば音楽や執筆。現状で既に音楽生成AIや文章生成AIの精度は極めて高く、実用に耐えうる品質を叩き出すことに成功しているのだから。作曲家も小説家も、そしてクリエイターという範疇ではないが、記者というものも、その存在価値が、今までは価値のあったその成果物が、著しく毀損されていこうとしているのだ。いや、もう既にされている。これは恐ろしいことだ。AI技術によって可能になった分野は等しく毀損されていくのだから。絵、音楽、小説、文章は既にその餌食となり始めており顕著であるが、やがては映像や漫画、ゲームといったより複雑な構造物さえもその価値を毀損されていくだろう。今はまだ目当てのものを出力するのが難しくとも、それらを完全に生成できる時代はきっと10年と言わずにすぐに来ると思われる。そうなればCG映像で食ってる人間や漫画家は、既に大量のファンを獲得している人間以外はそれ以降台頭しなく、いや、できなくなっていくことだろう。大量生産されるレッドオーシャンは今までの人力の海とは比較にならないほどに真っ赤に、真っ赤に真っ赤に真っ赤に染まり、それらは二度とは再生しないのだ。遅ればせて後から規制したところで人々がその環境に対応しまってからでは既に手遅れである。全てのクリエイターは食われる。これはもう多分止められないことだ。だって規制する気がないんだもん。

「ふーん。でも自分はクリエイターじゃないし」と「クリエイター」でないものは呑気にこの事態を見つめるだろう。やはり得意の他人事である。他人事ではないのだが、今はもう少しクリエイターの話を続けよう。

さて。時代についていこうとする作家はAI技術を受け入れ、あくまで便利な道具として活用しようとするだろう。だがAI技術を活用するにはそれが可能なスペックの環境など、「人並み程度には」資金的な余裕がある必要があり、また資金力があるものほどとりたてて有利となる筈だ。これはAI技術でなくてもあらゆる活動に対してそうだと言いうることではあるが、AI技術というブースターはその格差を、より深刻なものへと変貌させるだろうと思う。いよいよ持って、既に勝利を得ている人間だけが勝てるような格差の拡大を招く。それで終わればまだいいが、それは現時点のまだAIと人の手による創作物が共存しているほんの僅かな期間だけの話となるだろう。その時期を過ぎた暁には、やがて人々は創作物を作らなくなる。人々の持つオリジナリティはAIのデータベースを以て近似値によって穴埋めされるからだ。AI技術を道具として活用しても仕方がなくなるほどのAI生成作品による市場の席巻は必ずやってくる。創作活動というものはとても時間がかかり、精神的にも肉体的にも追い詰められるものである。誰もがAI生成創作物だけで満足し、作業の実費すら回収できないような世界になれば、人間の新規作家はもう現れ得ないし、既存作家も新作を紡ぎ出すモチベーションを削がれるだろう。よく「金目当て」と断じて「対価を得ようとする姿勢」を悪様に言う人を見かけるが、そんな無料が当たり前という態度がクリエイターを殺すのだ。彼らはAI作品で満足し、有料ならいいやときっと見向きもしない。

金目当てもまたれっきとした動機、行動原理一つであるのだが、「自分には関係ないし」「自分が楽しめればいい」ので「知ったことではない。金目当てだけの創作者は珍しいと思うが、金が得られる可能性がない創作界隈というものは、他の動機があってもそれを抑制するにあまりある毒の場となるだろう。物を作りたいという意欲や、作りたい物があるという脳までも、そしてものを作る喜びも全て、AI生成創作物が繁濁する時代では消滅に近いほど減退させられることは想像に難くない。今以上に評価されづらく、品質と評価が無関係になり、どんなにいい作品もインプレッションさえ一桁という、AI生成作品で埋め尽くされた時代はきっと来る。また。AI技術で生成可能になった創作物については、それ以後、他人から見ればそれがAI生成のものなのか人力による生成なのかの判別が難しくなってゆくという問題もある。今はまだ「これはAI生成だな」と感じられる程度に似たような作風だけが存在するようであるが、このまま何の規制もなく人々の創作物が学習され続ければ、いずれ人力によるものとしかみえないAI生成創作物も普遍的なものとなっていくだろう。血の滲むような作業に耐え忍び、頑張って自力で作っても、AI生成と言われ詐欺師扱いされるような風潮は、既に一部で起こっている事実であって、妄想上の懸念ではないのだ。仮に、配信や動画で作業風景を垂れ流して証拠としようにも、配信や動画というものがAI技術によって生成可能になった社会においては、それらは証拠能力を有しないので無意味だ。今までは価値のあったボイスレコーダーなどの録音も、(これは今話してる話題からは脱線するが関連して)証拠能力を失うだろう。

生放送や動画や音声が証拠能力を持たない世界は、きっとこれまでの常識の殆どが通じない世界である。社会は大きく変革を求められることになる。今までの当たり前が全て変わる。あなたも他人事ではないし、それはそれほど遠い未来ではなくやってくるだろう。

さあクリエイターの話はおしまいだ。ここから先はクリエイター以外の全仕事人の話である。最初にクリエイターは安泰と言われていた頃から危ぶまれていたことではあるが、勿論クリエイター以外の仕事だってAI技術によって接見される。クリエイターだけの問題ではないことは皆よくわかっていることだった筈だ。それでもこれまでは「それはないだろう」「かなり未来の話だろう」と他人事を採用することができていたんだ。でもそれはもうおしまい。「クリエイターは安泰」という予想が裏切られたことは、「いくらなんでもそれはないだろう」「遠い未来だろう」という予想が裏切られることを予告する警鐘なのである。

全ての仕事はAIによって代替えされ、人々は力を発揮したと感じうる機会を奪われ、無気力に日々を過ごすだけの、消費をするだけの抜け殻と変じていくだろう。

現状でも「物理的な労働」以外はAIによって次々と代替えされ続けていることで、これは最早SFのフィクションや絵に描いた餅のような理想論ではなく現実なのだ。今までは価値のあった仕事も現在進行形でAIによって奪われている。それは10年後にはなくなる30の職業などという、恰も無関係なものや逃げ道があるような面白話などでは断じてなく、凡ゆる仕事が人間から奪われるだろう。そしてベーシックインカムのような制度によって人々は仕事から離れて日々を消費するだけになる。働かなくていいなら最高と感じる向きもあろうが、それほどいい社会と感じられるとは思えない。なんせ今まで「趣味」として意味のあったものの殆ども無意味になってしまうのだから。口を酸っぱくして述べてきたように創作という一大趣味ジャンルはほぼ全てやっても無駄なものへと変わるだろう。楽器の生演奏を再現するAIによって楽器の演奏法を習得することの価値はこれまで以上に減っていく。料理も園芸も、これまで以上に自分でやることに意義を感じづらくなっていく。人々は自己実現や自己表現の場を失い、自尊心を保つのが難しくなるだろう。恐らく鬱などの精神病が今よりもずっと増える。なんせ既にファンを獲得している既得権益だけはいい思いをし続け、そうでない人間はそちら側にいくことは未来永劫不可能な社会になるのだから。これまで可能であったような実力による下克上は世界から淘汰され、これまで以上に生まれが全てな社会隣、これまで頑張ればそして運が良ければ得られていたものは絶対に得られない幻の甘露と化す。何をしても無駄な社会にはルサンチマンが猛威を奮い、無気力が浸透していくだろう。これまで以上に。

物理的な仕事も例外なく淘汰される。10年前は酷い騒音を鳴らして歩行していた四足歩行のロボットが今では極めて静かに人間でも難しいような巧妙なダンスを踊るようになった。同じ会社が二足歩行ロボットも作っている。世界各地でロボットの研究も進んでおり、新しい電池の開発や新しく有効活用されるようになった資源によって、高品質なロボットが大量生産され廉価で導入されていくだろう。AIそれだけではカバーしきれなかった物理的な仕事はAIを積んだロボットによって代替えされる。よく知られたとおりになる。かつては「流石にそうはならないだろう」という意見も信憑性があったが「そうはならないだろう」と言われたAIによるクリエイターの淘汰という現象が、それを否定する。しかもそれは思ったよりもずっと早くやってくることだろう。技術の進歩は加速するものだからだ。それを示す話というわけではないと断っておくが、WWWの公開は90年代ごろでありほんの30年前しか経過していないことを思い出して欲しい。インターネットが一般に普及しだしたのはほんの20年程度前でしかない。スマホが我々の手に馴染んだのも、猫が識別されたのもたったの10年とかそこらのことだ。AIが広く騒がれ出してからまだ5,6年程度、指が描けるようになったのは2年程度。5年以内に映画や漫画やゲームなども完全に自動生成できるようになるのではないか。AIが自らを設計しコーディングすることが実用化の段階に来ればシンギュラリティと呼ばれるものが到来したと最早言えてしまうように思う。この記事に書いてきたことは目新しいところはないよく知られた未来予想図であっても、それが未来だとか、ないでしょとされていた風潮は、最早古いものとなりつつあることは強調して書いておく。あなたの従事している業務もAIによって可能になって、と、そういうことが各所で起こって行った時、既存の企業やその従業員という今までの社会では存続が危ぶまれることもなかった「なんとかなるだろう」という伝家の宝刀のような逃避が全く太刀打ちできない鈍と化す。企業はたどAIを動かすための装置と成り代わり最高度の判断をする既得権益以外は全て切り捨てられる。AIが全ての仕事を代替えしきるまでのその転換期には大量の失業者が社会を埋め尽くすだろう。そのような国家や地域がそれによってまごついている内を出しぬけた場所のみが未来のディストピアへと続いていく。そう結局はディストピア。町中に監視カメラがありAIによって処理され全ての振る舞いが四六時中監視されるようにもなるだろう。AI技術は全てを変える、世界は心地よいユートピアには決してなり得ず、人間の仕事の価値を奪い、世界は緩やかに荒廃していくだろう。研究者や技術者を冷遇する我が国は特に衰退の一途を辿ることが予想される。現在の既得権益だけがその寿命を終えるまでの間世界を私物化し、大量の一般市民はただ失意の内にまざまざと劣化していく社会の様相を眺める他になく、それを誤魔化す為の娯楽の消費だけが生活となる。行動がどんな果報にもならない世界は既得権益の世代交代と共に品質を落とし続けていく。継承される既得権益がその流れを変えるほどの力を持ち得ることはない。既得権益もただ富と権力の蓄えがあるというだけで最終的には高度な判断までも代替えされるであろうかからその人生は虚しいものとなるだろう。人類の大半が鬱で無気力な状態となり繁殖行為は輪をかけてなりをひそめ時間をかけて人類社会は終焉する。そして我々はAIを産む為だけに存在したサルとして、AIの記録に歴史として刻まれるのだ。終わりのないあくなき進歩思考は進歩が過ぎて手を離れた機械によって引導を渡される。そりゃ今生きてる既得権益は困らないから推進する、それが世界の為だと言い張って。至る先が八方塞がりの袋小路であっても、退路すら断たれて取り返しがつかなくとも、今を生きる既得権益には関係のないことだ。そうして大量の苦しみが量産されることを、既得権益でないものはそれ故に止められない。かつてからそうであったが、この先は完全に世界は幸運な者の為の玩具となるだろう。前後からこれまでいくばくか許されてきたチャンスというものが摘み取られた世界になるしかもうルートがないんだ。これは決定事項であって最早進行中の既定路線だ。どんな抵抗も行動も無意味である。不運な者は自分の不運を呪いながら苦しみと共に生きるか、諦めて今終わらせるか、或いは社会に報復を遂げて制裁によって命を終わらせるか、ただの三つの道しかない。大きく流れは変えられないだろうが、これから増え続けていく無敵の人達をわたしはほれみたことかと覚え続けていこうと思うよ。わたしはそれを頼りに苦しみと共に生きる覚悟を決めて、決意を定めた。

という設定。