サイテイナボク

わたしという人格の設定資料集

時間の無駄 考える意味 価値

時間の無駄をしてしまうのはなぜか。
暇になるからか。
暇をなくせば良いか。
そもそも時間の無駄はなぜ受け入れられないのか。
余裕がないのか。
時間の余裕がないのか。
心の余裕がないのか。
両方か。
時間の無駄をなぜしてしまうのか。
必要なことにすぐに取り掛からないからか。
取りかかれない理由があるのか。
あるのならば取り除けばよかろうが。
時間の無駄と感じるのは必要なことがあって、それに取り組んでいないという自分の認識が原因でないか。
必要なことを十分やったか。
十分とは何か。

例えばそれがお金を稼ぐことであるとして、いくら稼いだら十分か。
億か。
億稼いでも家を買って税金払って貯金して投資してとしていたらすぐになくなる。
手元にあるお金とか貯金というものは心許ないものだ。
物価が超長期的にはインフレしていく中で稼いだ金額の価値はそのままではどんどんと下がっていきそうだ。

例えばそれが人生目的の達成だとして。
叶えたら十分か。
一生叶わない可能性もある中で、その場合一生「欲しがりません勝つまでは」をやってその他のことを全て無駄と切り捨てるか。
そんなストイックさはいかにも成功しそうと妄想しそうになるが、時間をかけたから、根性でたくさんやったから、とうまくいくというのはレガシーな思考であり、なんら根拠はないのではないか。

それでも時間の無駄と感じることを肯定したいのであれば、「他に」、あるいは、「他に」、やりたいことがあるということか。

よくわからないな。
正直、あたまがはたらかない。
つかれたんだ。
すぐ同じ結論に帰結するように、同じ回線ばかり強化されている気がする。
これは老化が早そうだ。
明日さえ生きられる保証もないが。

疑問はいい。
事実を述べよう。
時間を無駄にした、と感じたのだ。
それを辞めたいと感じたのだ。
それは事実なのだ。
他にやりたいことがあるのだ。
やればいいことはわかっているのだ。
やっても無駄であろうとも感じているのだ。

そんなこといったら生きるのは無駄か。
生きることは無駄か。
そんな、「全てが空であり空しい」みたいな、やっぱり似たような帰結を辿るか。

何を書いても何を思っても何を考えても何をしても解決しない袋小路にいるとして、このまま延命を図る理由は何か。

「死なないために生きるだけなら誰でもできる」

と歌った歌詞に魅せられたことはあるが、死なないために生きることはそれほど下等なことか。
自然界を見れば生物は死なないために生きているのではないか。
死なないように立ち回るのは生物としての大前提ではないか。
人間の場合はそれは金策であったり、社会的関係の構築と維持であったり…。

何もしたくないのに生きることだけはするということはできないか。
何もしたくないか。
眠くてわけわからなくなってないか。
最近混乱が激しくないか。
甘えという考え方が嫌いとして、若者の中でそういう生の感情をそのまま汲み取るような曲がたびたびバズったとして、そういうときだけ便利に若者側についてないか。
だからなんだ。
全部意味わからんね.

noteというプロットフォームにお邪魔して、そこで新着通知などで半ば矯正的に他人の目に触れることによる他人の心情への悪影響まで配慮せず、好き勝手に過激な言葉をマシンガンしていることは、価値生産という気持ちの悪い四字熟語的観点からみると、「瑕疵生産」とさえ言えそうだ。

だからなんだ。

どれだけ素晴らしい人の素晴らしい言葉も常に誰かを傷つけている。
そういう、「価値」だとか、「良し悪し」というのは、一方的なものの見方でしかないのではないか。
自分にとって都合の悪いものは悪で都合のいいものは良い。
それが個人の心というものだから、それ自体はいいのだけれど、それを「「社会的規範」と自分が妄想している総体」に絡めて「自分の中の正しさ」で「感想という大前提」を超えて「真実として糾弾して自己満足すること」が正義か。
「自分が気持ちいいことが正義」ならば、なるほど確かにこの酷いインターネッツにはいくつもの正義が共存しているな。
かくいうわたしも正義であり、この記事は正義かもしれない。

オマエ=カギカッコ・オオイネン(1641〜1659)

そして日付が変わる。
当初の予定を未達のまま。
言い訳はある。
理由はある。
原因はある。
それを取り除けない理由というか、取り除こうとして無理でしたという結果はある。
他者に見えていない自分の事情について他者に理解を強要するのは我儘と呼ばれそうだ。或いはコミュニケーション下手。

自分の現実を思い通りにコントロールしようとすることはそんなに悪いことか。
ああでもないこうでもないとそれぞれの思想の用件全てをtrueにしたまま次に進もうとするのは大雑把な子供じみた姿勢ではないか。
何かをtrueにするならば何かをfalseにしなければならない、そういう世の中の当たり前が、なぜ世の中の多数に支持されてきているのかどこまで真面目に考えたことがあるか。
自分の中の正しさに酔って自分の感想だから突き進んで奈落に落ちて行こうとしている自分が例えそれが自業自得で自分で分け入った獣道でもも舗装され誘導された道であろうとも…

考えることに意味はあるか

それぞれの行動中にそれについてよくよく考えるとかそういう話ではなく

こんなことを考えることについて

意味とは何か

意味がないというのが容易過ぎて、意味についてよく考えないクセがついてないか

意味についてよく考える意味は何か

ここでいう意味は、必要性や価値に当たるものであるか
少なくとも言葉が示す内容などではないし

価値とは何か
役立つかどうか?
哲学では個人や社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもった性質、真・善・美などであると、辞書サイトにはある

かつてMy定義したところによればまずそれは自分にとっての価値と他人にとっての価値に分けられるが、自分にとっての価値は
それをやってる時に自己満足できるかどうか
あとからそれや自分を誇りに思えるかどうか・自分がそれをやってよかったなと思えるかどうか
他人にとっての価値は人気によって決定されるものであるとは思うが、それは価値とは何かの答えではないだろう
じゃあ、「求められているかどうか」というものはどうだろう
或いは「好かれているかどうか」
需要とか、そういう常識の話値なっていきそうだ
常識の話がしたいのか?
まあそれはおいといて

少なくともこれらのMy定義で言っても、こういったことを考えたり書くことによる価値は、実行時の自己満足だけしか満たせないことがわかる

あとからこれらを誇りに思えるかは極めて微妙なところだ
即興作詞はまだしも
やってよかったなとは思わないのではないか

「おれはなぜあんな無駄な時間を──」といつもなっているのではないか

他人にとっての価値はないに等しいだろう
求められていないし、好かれてもいないのだから
狙ってもいないわけだし、狙ってそう言うことができるならば今頃noteでお金を稼げていただろうからできないということでもあるし、やろうともしていないのもtrueではあるが、どんどん逸れてくな

意図的に煙にまき、話を逸らす手法を好んで多用していたら、そういう文字列しか書けなくなってしまった
そりゃそうだ、学徒の頃みたいな、或いは文書を作成するような仕事の時のようなことを、このところ全然していない
あるのは自己の内面の押し付けがましい照射だけである
そこに一般的誉たる成長や健全がないことは知っていたしそれを良しとしていた
だからこそ今日まで誰でもわたしが触れられずにの話にされてきたのだろう
他人とてそれほど暇ではないのだから当然であるが

話が逸れ過ぎているな
そしてやっぱりまだnoteはやめられないようだな
趣味や中毒の類であることはわかっていたがここまで酷いとは自覚していなかった
やめようやめようと思いつつ、もう4時間近くこうしているし、気づけばもう寝る時間である

こんなことに意味はない、と言いたくなる理由は、それが「金を稼げない」の包含的言い換えであるのだろうという推測が、ピタリとはまりそうだ、と結論を書いて、終わりにしようか

結局は金である

世の中の価値は金だ
またややこしい勘違いを産みそうな流れで言葉を連ねているが、人生の値打ちは金だ、と言った方が適当かもしれない
そうしてそれが真であるからこそ世の中は不幸な人ばかりなのだと感じている
自分の認識範囲が平和だったか混沌であったかはそういう時の基本的な世の中への印象を強く決定づけていそうだ

今日はもう本当にダメだから
おやすみ
明日は始まらないけれど
それゆえに今日一連の発狂文字列を生成するに至っているのだけれど
それも仕方がない

問題解決と四文字で書くのは簡単で、如何にも論理的でスマートそうなその響きに魅せられるのは簡単だが、個々人の問題がそれほど他人に簡単に当て推量できるものであるとわたしは思わないし、解決できる問題しかないというか、凡ゆる問題が解決可能だと考えている時点で恵まれた人なんだなという印象を抱くのが正直なところだ。
解決が可能な人たちにとっての当たり前の解決に必要なツールやプロットフォームを、持っていない人がいると言うことを、彼らは認知すらしていなさそうである。
解決できない問題に苦しんでいるからそれを吐露することしかできることがないことについて、その想像力の領外にある「問題」を解決可能前提で問題解決などという言葉を使うのは、やはり世間知らずという言葉を贈りたくなるほどには、それはそれで自分の現実でしか生きていない証左だ。
もちろん、わたし!=せけんなので、わたしの問題を知らないからと言ってただちに世間知らずというのはただただ誇張表現というか、当て擦りに近いのだけれど、実際無知の知の意識が欠けているのではないか、とは指摘したいところである。

話を戻そう。
哲学的な意味での価値で登場した「真・善・美」に照らしてみても、このわうなことを考えることの意味はあまりなさそうだ。
強いて言えば自己認識上の真の探求にはなるし、それが本質というか、それが目的というか、それそのものなのかもしれないが、他者認識上の真と折り合うことを最初から放棄しているし、たして善でもなければ美でもない。

しっかし、こう言う時に無学を痛感する。
知っていることはただちにそれだけで偉いことではないとは思うが、これについて必要情報が欠けており、中途半端にちゃんと調べずにこの方向で妄想と感想を並べ立てていくのはマサカリが飛んでくる予感がある。
飛んできてもいいし、てゆうかそもそもどうせ絶対飛んでこない(あるとすれば知らないところで晒されるくらい)のだが、(そもそもこの下を読んでる人類、0人説)そう認識したところでなんとなく抵抗感があるのでよしておこう。
少なくとも、表意文字たる漢字文化の日本語上の一般的な意味で真善美という字面から受ける印象で言うと、善でも美でも無さそうである。

ふと米津玄師が「美しいものを作りたい」と言っていことと、他者の「これは芸術だからいいんだ的創作」を「しょうもない」と切り捨てていたことと、そう言うことをしていた身として反感的に「美しくないものを作ろう」と捻くれていったことを思い出す。それだけが原因ではないけれど。

言葉で美しさというと、真っ先に思いつくのは詩だ。
最近そう言うアカウントを見かけたからその人の記事とか、宮沢賢治なんかを想起する。
作詞だなんだ言っているが、美しさを探求してきてないから、私の歌詞は一切美しくないと思うし、直情的で直接的で身も蓋もないことをグロテスクにRAWで書き出す試みと表現するのが恐らくもっとも近いので、仕方ない。
美しくないものは好かれない。
これはルッキズムの話でも再三触れてきたが「それがどんなに受け入れ難くとも、現にそうなんだから受け入れよ」という話を思い出さざる得ないな。
好かれないものは金にならない。
当たり前のことだし、当然わかってはいたし、人気や金に中指を立ててここまでやってきたんだから、当然の帰結だ。
その結果が数時間前にあげたあのようなグログロな文字列なのだから、まったく、我ながら気色悪いモンスターを産んでしまったなと思う。
まあこちらから言わせて貰えば色々と「仕方がなかった」んだが、他社からしたらそんなことはしらねーよという一蹴要素であるしな。

さて。
そんなこんなでこのようなことを考えることの意味、つまるところ価値は、ほとんどない。
自分の認識上の真を探求したところで、幸せにはなれないし、何も変わらないし、腹も膨れない。
幸せになったり、何か変えたり、腹を膨らます必要があるかというそもそも論的疑問をまた手癖で自動生成して差し込めば、肯定することは可能そうであるが、そこら辺に結論をちゃんと弾き出さずになあなあにしたがる性分が、わたしを何度もこういうことを書くことに時間を使うことに誘っている迷いの本質であるのだろう。

わたしはそろそろ再び、自分を否定しないといけないのかもしれない。

かつては兄や姉や父や学校や町の人々からの仕打ちによって植え付けられた自己嫌悪と極めて低い自己肯定感が問題となっていたが、今となってはそれを克服するために養殖した自己肯定感が実利的な行為の足を引っ張るに至っている。
それが捨てるべきものなのか、まだ迷いがあるのは、わたしが冷徹なビジネスマンではないなによりもの証拠だ。

冷徹なビジネスマンが羨ましい。
他人を簡単に否定して持論を正論に昇華し他者を説得するプロだ。
使えないものを押し付けることさえできる薄情なクズであると言うこともできるし、性根逞しく実利を追求してるリアリストであると評価することもできそうだが、わたしは決してそうはなれないだろうと言う予感が十何年も前からあり、それ故にわたしが大金を稼ぐことは将来的に難しそうだ。

人をおとしめることを何とも思わない詐欺師にならなければこの国で勝つことは難しい。

などと言ってこの記事を閉めようか。
結局0:55だし。やっぱり時間の無駄だね。
実利性が皆無だ。
これをきっと冷徹なビジネスマンは「そんな基本的なことにやっと気付いたのか」と鼻で笑い小馬鹿にしそうだから断っておくが、知ってはいたんだ、ずっと。
ビジネスマンじゃないから、趣味やろうだから、米津玄師がしょうもないと吐き捨てる対象だろうタイプだから、それを好き好んでやってきただけで。
でもそれももうおしまい。
なんてったって2023が終わるのだもの。
わたしもそろそろ、自分というものにメスを入れていかなければならない。
自分の巣の中で好き勝手捲し立てて自己満足と自分の中の正しさに酔っている「子供じみた」行いは卒業しよう。
そう感じている自分はずっといたが、今まで発言権を奪われてきていた。
それが今になって政権交代である。
冷徹なビジネスマンなら「やっと気付いたか」「大人になったんやね」「それが成長だよ」と言いそう。絶対言わない。あいつらムカつくな。なおこの冷徹なビジネスマンはわたしの妄想上の存在でありわたしの頭の中にしか存在しない上地その存在もかなりもやがかかっており形がところどころ怪しい。もちろんモデルとない人物像や体験というのはありそこから組み立てられた印象的存在というか人間観察結果なのだけれど、いかんせん実在存在ではないので、やはりこれにも意味がない。
意味がないことを愛し過ぎた。
その結果に対して今更文句を言うのはフェアじゃない。
自分が選んだルートなのだから、それについては責任を持つ。

冷徹なビジネスマンはそれはもう他人事にわたしに死んで欲しかろうが、わたしにとってはわたしは他人事はいかないので死ぬわけにはいかないんだ。
こんなボロカスゴミくそ状態でもうどうしようもないダメになった不毛の大地みたいな自分でも何とか生きていかなくちゃならないんだから、人生とは交換不能後戻り不能一発勝負のクソゲーだ。
わたしは今までのわたしを卒業する。
これに名前をつけることを好ましく思わない自分ごと卒業できるかは未知数だが、そう言うことも必要になってくるのかもしれないな。

サヨナラ無駄なこと